2005年4月号
連載1  - 大学発ベンチャー経営者は語る
大学発ベンチャーIPO*第1号のその後

村田 利文 Profile
(むらた・としふみ)

(株)ソフトフロント代表取締役会長


 時代を先取りして、どうして当時、大学院を修了されて、すぐに会社をつくったかについて、まずお聞かせください。

写真1

「大学の先生自身がビジネスとの距離感が近
     かったと思います」と村田会長。

村田 当時、電子工学科出身者の就職先の候補としては大手企業でコンピュータをやっているところや機器メーカーなどが多かったですね。地元に残りたいとなると、放送局ぐらいしか進路がないけれど、大学院まで行けば、結構な割合で教職員になれました。

ただ、我々の世代は時代に恵まれて、「アスキー」の創業者は同年代ですが、みんな中退して早々にビジネスを起こしていました。米国では、アップルやマイクロソフトもできていて、ガレージでもビジネスを始められることがわかっていたし、また、札幌ではゲームで、ハドソンがビジネスを立ち上げ始めていました。

新しく出現してきたCPU(マイクロプロセッサー)を使って、何かビジネスができるのではないかという予感があり、世の中の動きはそちらの方向に向いているので、PCと産業のIT化をテーマでやれば、地元札幌でも何とか自分たちの力で商売ができるのではないかということで、会社を起こしたというよりは、就職しなかったという感じです。

それから、私も含めて当時の仲間は4人中3人が自営業で、商売が身近だったこともあり、地元で親元から通っているのでコストはかからないし、独立するのは、あまり抵抗感がありませんでした。

 当時は、シリコンバレー勃興の時期であると思いますが、そのような情報は身近に感じられたのでしょうか。

村田 ええ。大変身近でしたね。「アスキー」や「I/O」など草創期のパソコン雑誌がそういう動きをレポートしていましたし、大学の先生や院生たちが米国のフェアに行って、いろいろ買い物をしたり情報を仕入れたりして、そういうことを教えてくれるという状況でもありましたから、リアルタイムでわかっていました。特に札幌は、そういう情報は早くて、OSやシステムを自らつくる先生方もいて、世界とはたまたま商業化の波に乗るか乗らないかぐらいの差であったと思います。

私も当時、8ビットCPUのOSのマニュアルを翻訳する仕事などを先生に紹介されてやっていましたし、大学の先生自身がビジネスとの距離感が結構近かったと思います。

 当時、まわりの学生で同じように独立した方はいましたか。

村田 北大では我々以外の動きはなかったですね。でも、阪大も九大も東大も、徳島もあったし、それぞれの大学で少しずつ同時に起こって当時代表格の会社ができましたので、我々が特別だったとは思いません。70年代の後半は、若い人たちでも新しい産業をつくれるんだという機運が盛り上がっていたと思います。孫正義さんや西和彦さん、それから、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツなどみんな同年代です。あのとき、大学でそういうことをやっていた人が、いいチャンスの波に乗れたのだと思います。

写真2

「先生方の協力により、ビジネスに大切な事を
     多く学ばせてもらいました」。

 大学院生のときにビジネスを始められたということですが、大学との関係はどのようになっていたのでしょうか。

村田 何にせよ、国立の大学を税金を使って出ているのに、まともな会社に就職しないのは、コードに反しているということをおっしゃる先生もいました。しかし、私の先生は守ってくれました。永田邦一教授が民間企業の出身でビジネス感覚があり、産業が重要であることもわかっていらしたし、栃内香次助教授もすごくフレキシブルな方で、私が何をやるにしても、それを認めてくれたことが非常に大きかったと思います。

また、伊福部達先生は学生たちがビジネスをするのを全て認めてくれた上に、お客さんを連れてきてくれました。大日本印刷との取引がビジネスを立ち上げるときに重要でしたが、そのときも大日本印刷の方が伊福部先生のところに国内留学で来ていたことがきっかけでした。このように人脈づくり、販路づくりでは、ほんとうに有形無形にいろいろやっていただきました。これは技術移転ではありませんが、我々には一番助かりました。

 大学院を修了されて、本格的にビー・ユー・ジーを立ち上げてからの大学との関係はいかがでしたか。

村田 山本強先生のソフトウェア関連の研究成果を何度か技術移転させてもらいました。先生のところで新作のソフトのデバッグやテストなどをやって、自社開発のソフトを追加して、全体を製品化して、販売するなどです。今は技術移転の意識的な促進が盛んに行われていますが、当時は普通に大学の先生と付き合うなかで、そのようなことをずっとやらせてもらっていました。山本先生は産業界におられたこともあり、他の先生よりもビジネスを理解してくれて、我々の相談に乗ってくれて、技術の筋や方向、可能性などを惜しみなく教えてくれたと思います。

やはり創業の時期に関係が大きいのは伊福部先生と山本先生です。そして、青木由直先生は、オープンな場づくりをしてくれたということです。

小樽商大の戸島ひろし先生(故人)も数式処理のビジネスを紹介してくれて、これも成功しました。

 札幌にこだわる利点とはどのようなものがありますか。

村田 草創期は地元のヒーター屋さんや照明屋さんの仕事をIT化するという事業をやっていましたが、他に大日本印刷やソニーなどの大手企業ともやっていて、だんだん道外、首都圏との取引が広がってきていました。80年代後半は、ほとんど道外になっていたと思います。

地元にこだわったというよりも、地元で始めたから地元にいるということが大きかったと思います。これは今でもそうですが、メリットとしては人材確保が一番大きかったです。それから、やはり企業の特色を出しやすいですね。同じくハイテクの事業をやっているといっても、首都圏に会社があると埋もれてしまうけれども、札幌は小さいですからね。ハイテクで地元にいられて、特色のある仕事ができるとなると、そういうことをやりたい人はわが社を選んでくれると思いますから、企業が埋もれずに済むという面では有利であると思います。

 次に、ビー・ユー・ジーをスピンオフした理由をお聞かせください。

村田 システムハウスBUGでスタートし、ハードをつくって、それをコントロールするソフトウェアをつくるということをやってきましたが、私がいた最後の頃は企業として効率が悪いということで、ソフトウェアを切り落として、システムに事業をシフトするということをやりました。

それから、10年以上も同じメンバーが同格でやることには限界があり、服部社長に責任のあるトップになってもらって、他が一歩引かないと、単に合議制だけではうまくいかないことを認識して、社内改革にも協力しました。組織のフラット化も行い、小さいチームで、中間管理職をなくするということもやって、少なくともその時点では正解だったと思います。

ただ、そうやってバランスを変えていって、会社としてはいいけれども、私としては、ソフトウェアをほんとうにやらなければと思い、92年の決算である7月に退職させてもらって、ビジョン・コーポレーションを設立しました。

 最初はスピンオフをして、具体的に何をされるかについてはあまりイメージがなかったと伺っていますが。

村田 私の強みはソフトウェアなので、何かソフトウェアの事業を、とは考えていましたが、具体的には何も決めていませんでした。それで1年間は猶予期間だと考え、ちょうど次女が生まれたところだったので、子育てをしながら、これまでずっと休みもなしに働いてきたから、遊ぼうと思っていました。その間に人脈を広げて、何をやったらいいか決めようと思っていましたが、あいさつに行く先々で、次々に仕事を頼まれました。恩師の一人である北大の田中譲先生が当時、インテリジェントパッド(IntelligentPad)をやっていらして、これの産業化にあたってコンソーシアム(IPC:IntelligentPad Consortium)をつくることになり、その事務局長をやることになりました。それから、富士通の部長のところに行ったら、「おまえ、プログラムをつくっていただろう。こういうプログラムを書けよ」と言われて、それをやらなければいけなくなったりしました。結局、私も貧乏性なので、1年間遊ぼうと思っていましたけれども、半年ぐらいで、実質的には動き始めました。

インテリジェントパッドは非常に新しい考え方で、その国際的な普及活動をやろうということで、プレゼンテーションと意見交換のために、田中先生と一緒に米国に何度か行きました。テッド・ネルソンやダグラス・エンゲルバート、ビル・アトキンソンなど当時のコンピュータサイエンスのビジョナリーたちに会うことができました。彼らは技術の力で世の中を変えようと本気で思っていて、PCなどの機械が本質なのではなく、ネットワークを使って新しいコミュニケーションのあり方を構築して、それで世の中の生産性や効率やクオリティを上げていくということを考えていました。これはすごいなと思って、そのような話を聞いていくなかで、コミュニケーション環境を事業にしようと決めていきました。

 IPOを目指された理由についてお聞かせください。

村田 一人でスピンオフしたときに、起業家としてまたやり始めるのだから、会社として成長していくことをしっかりとやり切らないといけないと考えたことが一つの理由です。もともとチームで経営することばかりやってきましたので、ワンマンでけん引するということがあまり頭になく、会社は公器として育てたいということもありましたので、会社としての成長路線の中にIPOがありました。会社を公器として育てていくことには全く抵抗感はありません。それから、自社技術を持ってライセンスビジネスをやっていきたいという希望もあり、そのためには研究開発型でやることが成功パターンだと思っていたので、自社で資金を確保するためにも、IPOは必須でした。

写真3

「会社を公器として育てていくことには、全く
     抵抗感はありません」。

97年にビジョン・コーポレーションとコアシステムをソフトフロントに合併した直後にベンチャーキャピタリストから話があって、そろそろ時期じゃないですかと言われ、投資を受けました。受けたからには、当時はイグジットが上場しかないので、上場を目指したわけです。

 IPOをする前とした後で変わった面はありますか。

村田 やはり公開すると、ガバナンスや情報開示などいろいろありますから、それは当然やらなければいけないので、非常にまじめにやっています。IPOを意識して、その2~3年ぐらい前より、「公開するのだから会社をこのように変えていこう」ということをやっていました。そのため、公開して何か大きく変わったということはありません。

経営者として一番大きいのは、毎日、株価として通信簿がついているようなものですから、それは厳しいです。今回も、年度内で2回目の業績の下方修正をやり、これは私としても株主に対して責任があるということで社長を交代しました。以前から実は副社長に「社長になってもらいます」という話をしていましたが、この時期に社長の交代をやったのは、公器としての会社に対して責任があり、けじめが必要であると思ったからです。そういう意味では上場したほうが厳しいと思います。ただ、資金面や信用面では大分違いますし、会社に株価がついていることでできることもいろいろあるので、企業としての自由度は随分上がったと思います。

 札幌にある会社の規模の限界ということを伺ったことがありますが、その点はどのようにお考えですか。

村田 すでに我々の社員の3分の1は東京オフィスにいます。マーケティングと営業はすべて東京にあり、アドミニストレーション関連も次第に移行していきます。カスタマイズ関連など顧客との密着度を高めていかなければいけないので、すでに東京でも開発をやっています。札幌は開発拠点という位置付けになります。このように人が札幌にいなければいけないという制約は外していかないといけないと思います。主力は全部、札幌にいたままだとすると、少なくとも我々のモデルでは成長の限界はあります。我々の顧客は東京の、特に厳しいセットメーカーなどですし、付き合いの仕方もそれなりに条件がありますから。そう考えると、当然、東京の人員を増強しなければいけないと思ってやっています。

それから、我々はテーマを絞り込んでいて、世の中でこの分野が伸びていけば、絶対わが社がそこのトップとして伸びていくという路線を取っています。そのためにやらなければいけないことは単に開発だけではなく、販路構築やマーケティング、世論を形成していくことなどさまざまであり、そこに今、非常に力を入れています。このように今までのサッポロバレーの企業とは異なり、札幌というブランドを半分削ってでも成功しようと思っています。

 行政との関係についてお聞かせください。

村田 地場にしっかりとした産業がないことが悩みで、80年代半ばより札幌市がIT産業の育成に力を入れ始めましたが、IT産業を産業振興の軸にしなければいけないというスタンスはこの間、ぶれていません。地元の企業をどうやって育成すればよいのかについて、常に担当課とディスカッションをしています。そのことで我々に対する直接のメリットはないけれども、IT産業のように変化の早い産業分野で、実態に即した育成策を遅れずに実施するために、産学官のそれぞれのスタンスで継続的に話をすることは本当によいことだと思います。

また、行政の担当者が第三セクターの現場や企画に行ってはまた産業振興の部署に戻るなどしていますが、継続的に話ができることでお互いに信頼感を持つことができ、このことは本当に重要なことです。

 今後、大学発ベンチャーを考えている方やIPOを目指されているような方にコメントをお願いします。

村田 マネジメントをチームで行っていくことが非常に重要ではないかと思います。私は技術者出身で社長をやってきましたが、自分の能力を補うために共同経営者と一緒にやってきたという思いがあります。これからの方たちは、マネジメントチームをどのようにつくっていくかを重視されるとよいのではないでしょうか。

それから、私がこの会社を成長させるにあたっては典型的な研究開発型をとりました。まずシーズとなる技術を用意して、次にそれを市場で展開するという方法を取ってきましたが、この方法が成功するには幸運も必要だと感じています。今も苦心をしながらやっていますが、これはよほどのことがないと、そうそう成功しないと思います。だから、起業されるのであれば、市場をよく見極めることが本当に重要だと思います。

また、成長の仕方やイグジットなども多様になってきていますから、冷静によく見て、多くの方といろいろ相談しながら経営することをお勧めします。地域も含めて、やはり外との関係の持ち方が重要で、そこをしっかりやっていけば支援してくれる人もあらわれるし、会社の成長がより確実なものになると思います。

写真4

インタビュアー/構成:遠藤達弥氏

最後に、ゴールが単にお金ということでは駄目で、社会的な存在として企業をどう育てるかを常に意識していないといけない。会社を成長させるにあたっては、社会との関係を考えざるを得ないと思いますから、そういうことを心がけてほしいと思います。

 最後に、ソフトフロントの今後の目標をお聞かせください。

村田 日本のいわゆるITベンチャーで成功した会社の多くはIT「関連」企業であり、テクノロジーの会社ではありません。それに対して、米国のIT企業は、サンやマイクロソフト、アップルなど、ITそのものをビジネスにしています。だから、目標は、IT企業として成功することです。

●聞き手:(財)全日本地域研究交流協会 事業部次長 遠藤達弥

*IPO
Initial public Offering 株式の新規公開