2006年3月号
特別寄稿
産学官連携の変遷と展開
-新技術開発事業団を題材として-
顔写真

藤川 昇 Profile
(ふじかわ・のぼる)

(独)科学技術振興機構 産学連携
事業本部 技術移転支援センター
技術参事


はじめに

編集部より、2005年10月号に掲載された千葉玄彌氏の特別寄稿「産学官連携制度の始まり」の続編を書くようご依頼があった。浅学非才の身、とても先輩のようにはいかないことは分かっていたが、これまで長い間産学官連携に携わってきた者として、連携推進に少しでも参考になればと思い直しお引き受けすることとした。

ここでは、当時の産学官連携をめぐる厳しい状況の中、技術移転の草分けである新技術開発事業団(現・独立行政法人科学技術振興機構・JST)の委託開発事業が、新しい基礎研究システム(創造科学技術推進事業ERATO)の創設に果たした役割、およびその後の産学官連携状況の進展を中心に述べてみたい。

1980年代までの産学官連携と事業団

ご承知のように、1980年代初めまで日本は先進国からの技術導入を基に、品質向上、自動化により生産性を向上させ、大きな経済成長を遂げてきた。

この間、産業界と大学が連携・協力することは一般的には「悪」とされ、産業界は米国の動向を重視していた。一方、大学では一部の研究者が個人レベルで研究成果の技術移転、実用化を志向していたに過ぎなかった。

このような社会情勢の下で、大学等の研究成果を技術移転し、実用化に繋げる委託開発事業を運営していくことには多くの困難が伴った。大学を訪問した際、何度か冷たい雰囲気を感じたことが今でも思い出される。そして、委託開発事業を主な業務としている事業団は、第二次臨時行政調査会の統廃合対象法人としてリストアップされた。

そのころ米国では、1970年代から80年代初めにかけての日本企業の台頭による自国経済が停滞、日米経済摩擦が起こった。その一つの現れが「基礎研究ただ乗り論」であり、日本政府も基礎研究へのシフト、自主技術開発の必要性を強く認識し始めた。

しかしこのような状況が、統廃合対象の事業団にとっては格好の環境となり、基礎研究制度の創設による事業団変身への追い風となった(この間の事情は、千葉氏が10月号で詳しく述べている)。

とは言え、旧科学技術庁傘下の小さな法人が基礎研究分野に入るのは並大抵のことではなかった。

基礎研究への志向と創造科学技術推進事業(ERATO)の誕生

事業団が基礎研究分野を志向するに当たり、これからの日本は「革新技術の源流となる新しい思想を生み出すとともに、革新技術の芽を創出する」必要がある、それには新しい研究システム*1が必要であると、事業団の千葉玄彌企画室長(当時)を中心に旧科学技術庁および衆参両院の国会議員への懸命な説明から始まった。

しかし、参議院の中山太郎議員ら一部の応援を得たものの、「正気の沙汰ではない」との意見が大半で、事業団がこのような基礎研究に乗り出すことは極めて難しい状況であった。

それもそのはず、当時の日本にはない(世界にもなかったと記憶している)新しい研究システムの提案、しかも基礎研究を推進した経験のない事業団が運営母体になると言うのだから無理もない。

しかし、当時ワシントン駐在科学アタッシェから帰任したばかりの科学技術庁振興課長の長柄喜一郎氏、当時の通産省から振興局長に着任したばかりの宮本二郎氏の賛同を得、1980年6月の鈴木内閣誕生で就任した中川一郎大臣の支持により厚い壁であった庁内の意見がようやくまとまり、「創造科学技術推進制度」として夏に大蔵省(当時)との予算折衝にこぎ着けた。

1980年12月、大臣折衝で科学技術振興調整費30億円(うち創造科学分6億円)が内示されたが、大蔵省からは科学技術会議で創造科学の中身を検討しなければ6億円はつけない、との条件が付いてきた。この場面では科学技術会議議員の鈴江康平氏(元事業団理事長)、財界の大御所土光敏夫氏の強力な後押しがあったと聞く。

また基礎研究を所管する当時の文部省との省庁協議では、「家に土足で踏み込んできた」との発言もあり、創造科学は基礎研究でなく「基礎的研究」とせざるを得なくなった。

その後、当時の科学技術庁総務課長であった尾身幸次氏はじめ多くの方々のご尽力により、事業団法が改正され(1981年5月施行)、ようやく創造科学技術推進制度を事業として実施する条件が整った。

しかし、創造科学技術推進事業は、前述のように当時全く新しい研究システムであったため、産学官さらには海外からの期限付き研究者の確保、研究者兼業問題、研究実施場所確保、特許権の共有、予算執行、規定類の整備、これらに関わる関係省庁との折衝などに多大の時間を費やし、形式的な研究プロジェクトの発足は1981年10月であるにもかかわらず、実際に研究が始まったのは1982年4月ごろであった。

この間、担当職員は昼夜を問わず対応・待機に追われ自宅に帰れるのは週に2~3日、この状態が1年以上続き幼い子供からは「また来てね」と声をかけられたと嘆く者も出る始末であった。

創造科学技術推進事業と委託開発事業の接点は「人」

創造科学の研究プロジェクト(総括責任者と研究主題・モチーフ)を決めるにあたって、これまでの委託開発事業での経験が大いに役立った。

創造科学は、卓越した研究者を総括責任者として指名し、研究プロジェクトの推進を全面的に委ねるものだけに、プロジェクトの成否は総括責任者の力量にかかっている。まさに「人」中心である。特に、研究者としての洞察力、才能のほかに、優れた研究者を産学官さらには海外から集め、ヘテロ(異質)集団を構成して新しい価値を生み出すことができるかどうかが大きなポイントであった。これを制度説明の段階でさまざまな例えで表現して理解を求めた。いわく「白楽と天馬」、「出る杭は引き抜く」、「和を以て尊ばない」などの言葉である。

一方、技術移転の候補課題として目をつけ(発掘という)、開発課題として仕立てあげ(課題編成あるいは育成という)、企業の場で開発を実施し成果を得る一連の委託開発プロセスの中で、大きな決め手となるのが「研究者個人の力量、信頼性、実績など」にあることが、過去20年間の経験から分かっていた。なお最近知ったことではあるが、ペンシルバニア大学の技術移転部門が技術評価における4つの重要項目の1つとしてInventor’s Profile*2を挙げているのは興味深い。

この研究者個人の力量、信頼性、実績重視の考え方が、人中心を前面に出した創造科学の研究プロジェクト(総括責任者と研究主題・モチーフ)を選ぶ際に生きた。

創造科学の研究プロジェクトにおいては、総括責任者としてふさわしい研究者が存在すること、またその研究者の下に多くの若手研究者が集まってくること、研究の主題は物質から生命までの一連の領域において「新しい切り口」が提唱できること、多くの外国人が参加するよう日本の強い分野に属する主題であることなどの条件が不可欠であった。

さらに、事業団が基礎研究事業を推進するにあたっては、基礎研究といえども将来その研究成果が実用化され、実施料収入が得られる可能性のあることを説明する必要もあった。

このような条件の下、総括責任者選びでは、過去20年間の委託開発事業での開発実績をベースに数十名の研究者をリストアップし、研究実績、将来の実用化を視野に入れた基礎研究マインド、複数の研究者および教え子たちによる人物評価(風評)、研究推進にかける情熱などの角度から4人の総括責任者(およびその研究主題)に絞り込み、事業団開発審議会の答申を得てようやく決定する運びとなった。

これらの研究プロジェクトは全て新素材に関わるもので、「超微粒子」(林主税日本真空技術社長)、「特殊構造物質」(増本健東北大学教授)、「ファインポリマー」(緒方直哉上智大学教授)、「完全結晶」(西澤潤一東北大学教授)である。なお統一主題は「有限個の原子・分子の組み合わせにより新しい素材を創る」とした。

幸いこれらのプロジェクトは、例えば「ナノテクノロジー」のように新しい科学技術の源流となる思想を生み出し、「カーボンナノチューブ」のような革新技術の芽を創出した。

また、プロジェクト終了後、いくつかの研究成果が実用化されこれまでに数億円の実施料収入をもたらした。基礎研究の成果としては満足のいくものといえる。

なお、人中心の精神は、その後の事業団の国際共同研究、戦略的創造研究に受け継がれている。さらに、研究システムそのものがその後の日本の基礎研究システムに大きな影響を与えたほか、海外にも大きな影響を及ぼした。例えば米国のNSF(全米科学財団)では、1980年代に調査団を2度にわたって日本に派遣し徹底的に創造科学の研究システムを調査、研究運営に生かしてきたと言われている。

産学官連携の進展

1980年代に飛躍的な経済成長を遂げた日本も、90年代に入り生産コストの安いアジア諸国の台頭で製造業の国際競争力が低下、技術革新による新製品開発の必要性が痛感されるようになった。しかし、体力の落ちた多くの企業にとっては単独で技術革新を進めることは資金的、人的な面から困難な状況にあったことに加え、大学側にも社会貢献が求められるようになってきたことから、産学官連携の重要性が浮上してきたものと考えられる。

米国では既に1970年代後半から、経済の停滞を克服するため新技術開発を重視し、さまざまな産学連携強化策を打ち出し、技術移転環境の整備を行ってきている。

日本では、1986年の研究交流法による産学共同の動きはあったものの実験の域を出ず、国策としての本格的な産学官連携は1995年の科学技術基本法、1998年の大学等技術移転促進法(TLO法)、1999年の産業活力再生特別措置法(日本版バイドール法)以降である。

この間、事業団は日本科学技術情報センターと統合して科学技術振興事業団(1996年)、独立行政法人科学技術振興機構(2003年)となり、基礎研究および産学官連携の推進母体として大学・研究機関への支援、企業の技術開発支援を積極的に進めてきた。

今後の産学官連携

日本における産学官連携は、いよいよ実質的な中身が求められる時期にきた。

しかし、産学官連携に果たすコーディネータ役、プロデューサー役の不足、連携による企業の技術革新成功事例の積み上げ、大学発ベンチャーやTLOの体質強化など産学官連携に伴う課題はまだまだ多い。JSTの委託開発事業においても、金融機関が担保重視主義から経営計画重視へとシフトしている中、開発計画・開発責任者重視、開発期間中の支援強化を検討することも必要となろう(そのためには、一層の目利き力が要求されることになる)。

しかし一方で、コーディネータ役に経験は浅いが意欲を持つ若い人が増えたこと、大学の産学連携への意欲が相当高まってきたこと、技術革新を目指す企業も知の源泉としての大学を認識し始めたこと、第3期科学技術基本計画(案)からも政府の連携支援施策は当分期待できることが窺えるなど明るい材料も多い。

産学官連携を継続的に実効あるものとするためには、大学の研究成果を育成できる人材のOJTでの養成、産学官連携による技術開発事例の積み重ね、その成功・失敗要因の分析、研究成果・開発成果の経済的、社会的な波及効果測定法の確立などを通じて地道に取り組んでいく必要があると思われる。

*1新しい研究システム
総括責任者に研究推進の全てをお任せし、産学官・海外から広く研究員を集めてヘテロ集団を形成、5年間の研究推進後解散する、いわゆる姿なき研究所のシステム。

*2Inventor’s Profile(ペンシルバニア大学における発明の選別基準(triage))
Inventor’s Profile / Technical Merit / Protectability / Commercialization Potential