2006年4月号
巻頭座談会
産学官連携による人材育成(前半)

パネリスト:山野井 昭雄 Profile
(やまのい・あきお)

味の素株式会社 顧問

パネリスト:加藤 敏明 Profile
(かとう・としあき)

立命館大学 教授/インターンシップ
教学委員会 委員

パネリスト:松澤 孝明 Profile
(まつざわ・たかあき)

神戸大学連携創造本部 教授/
本誌編集委員

パネリスト:三浦 有紀子 Profile
(みうら・ゆきこ)

文部科学省 科学技術政策研究所
第1調査研究グループ 上席研究官


標題の座談会を2006年2月6日、科学技術振興機構内で開催した。本座談会の内容を4月号(前半)、および5月号(後半)で掲載する。

はじめに

松澤 (司会) 今日は皆さま、お忙しいところ、「産学官連携ジャーナル」の座談会にお集まりいただきまして、ありがとうございます。

第3期科学技術基本計画の中心課題の一つが人材育成ということもあり、本ジャーナルでは今年度、科学技術人材育成について取り上げてまいります。そこで本日は、わが国の抱えている科学技術人材育成をめぐる問題について議論してまいりたいと思います。

まず、理工系も含めまして、日本の学生が産業界で活躍する、もしくは大学に残って研究者として成功していくためには、世界に通用する人材を育成していくことが大切だと思います。日本の学生と海外の学生、特に日本のPhDと海外のPhDの間の競争力が非常に重要な問題になってくると思います。そこで、海外の学生に比べて、日本の学生、特にPhD学生に何が欠けているのかという視点から議論し、わが国として、今後人材育成にどのように取り組まなければいけないのかについて議論できればと思います。

科学技術政策研究所では、この1月末に日中韓の科学技術政策セミナーを開催しました。この機会に各国の科学技術政策研究所所長と意見交換をしましたがその中で、近年、各国の科学技術力の比較において、研究者育成システムやマネジメントシステムに関心が高いことがわかりました。つまり、科学技術政策の関心の中心が、ハードからソフト、特に人のクリエイティビティをどう刺激するかということに変わりつつあるという感想を持ちました。日本は確かに経済大国になり、教育面でも平均値から見ると世界の中でも非常に高い水準にあります。しかし、今後、日本が国際競争社会の中で生き残っていくために、リーダーシップを執れる日本人をどう育てていくかが、アジアの大国たるわが国の一つの責務になっていくのではないかと思います。そういう期待も含めて、PhDの問題を議論できればと思います。

経団連の産学官連携推進部会の設定と産学連携人材育成

松澤 はじめに、産学連携による人材育成について、文部科学省(文科省)と日本経済団体連合会(経団連)の協力を進めてきたお立場から、山野井先生にお話しいただきたいと思います。

写真1

「人材の問題はものすごく時間がかかるからこそ
     先延ばしにするのではなく、今検討することにし
     たわけです」と山野井氏

山野井 今、松澤さんからお話があったように、経団連の産学官連携推進部会というのがございまして、2001年の途中ぐらいから私がまとめと進行をさせていただいております。経団連では初めてできた部会です。それまで、産学連携はずっと以前から言われていましたが、実質的に進行が遅いため、いま一度産業界が声を上げてやらなくてはいけないということで、経団連においてこの部会をスタートさせたという経緯があります。スタートは産学連携で研究開発をどう進めるかということで議論をしました。結局、海外の大学(正確には、大学を含む研究機関)および国内の大学との関係というのがずっと浮き彫りになりました。双方に研究開発費がどのくらい流れているのかを計算すると、これはもうご存じのとおり、2倍以上が海外の大学等の研究機関に行ってしまっているということでした。つまり90年代の初めごろはほとんど両者で差がありませんでしたが、10年後日本の産業界から、海外の大学に流れる研究開発費が国内の大学へのそれの2倍以上になってしまいました。この理由は、やはり物の考え方によっていると考えます。垂直型に突き進む研究、これは学術的に最も重要な研究、大学が持っている研究ですが、日本の大学も欧米の大学も大変優れています。しかし一方、水平型の、各専門分野をどう横に連合していったら新しい価値が生まれるかという形の研究、これは産業につながる場合はどうしても必要で、大学ですから当然基礎段階ですが、これは欧米の大学では非常にバランスよく行われているわけです。結局、水平型、横型の部分に非常に強い力があるために、結果として、日本の大学でやるよりも海外でやったほうが成果が出るということを産業界がわかってきたのが理由であると思います。これではまずいわけで、これをどう解決しようかという議論を進めていったときに、結局これは価値観の問題だろうということになりました。要するに、研究なり人材育成の軸足をどこに置くかという議論を抜きにして、「今こうだから何とか日本の大学さんお願いしますよ」と言っても、そう簡単にいかないので、話を人材育成に切り替えたのです。人によっては、一番時間のかかる人材育成をどうして取り上げるのかという意見もあります。大学と産業との間の共同研究にも内在する問題があり、それらを全く放棄したわけではなく、例えば知財の問題、産学連携の形でのCOE、融合型のCOEの発想も論議していますが、それに加え、人材の問題はものすごく時間がかかるからこそ先延ばしにするのではなく、今検討することにしたわけです。従って人材に焦点を絞って議論したのは、まず理系についての議論でした。たくさんの問題点が出てきました。特に最近の若者の特徴は、これからの国際競争を戦っていく上において、ネガティブであると言わざるを得ない点がいくつか出て来ました。例えば、指示待ち型の体質とか、基礎学力が不足しているためにフレキシブルに動けないとか、それから、周辺の知識の幅が狭いことが、テーマ設定のフレキシビリティーを低くしているというか、新しいテーマを見つける際のネックになるとか、いろんな問題が出てきました。

そのような状況で、産業界として何が支援できるかということになりました。なぜかというと、私どもはステークホルダーの一つなのです。つまり、毎年大量の若者が企業に入って来るので、若者のレベルとか考え方、特徴はものすごく大事です。もちろん、企業の中で鍛えなければいけないものもありますが、企業は教育機関ではないので、正直言って限界があります。

教育は大学が主役ですが、高度人材育成ということで、文科省さんの大変なご努力で実現し今、2年目に入り、予算も増えていると聞いてよかったと思います。それから、例えば、人材交流とか、融合型のセンター・オブ・エクセレンスの構築などいくつかご提案しています。結局最後に残るのは人材の問題で、これ抜きに種々の施策を考えても、本当の答えは出てこないというのが私どもの考え方です。

松澤 人材が産学連携の関心の中心になってきた今日、われわれがこれからどのような問題について一つ一つ取り組んでいかなければならないのか、またその前提としてどういう考え方で臨んでいけばいいかということがあると思います。科学技術政策研究所の三浦さんたちの調査研究の一つに、米国と日本のPhDの比較がありますね。日本のPhDは米国のそれと比較してこんなところが足りないのではというようなご意見はございますか。

日本のPhDと米国のPhDとの比較
写真2

「日本のPhD取得者は、専門的な知識のレベルでは
     全然申し分ないけれども、いざ研究をしていくために
     求められる能力が乏しいと思います」と三浦氏

三浦 ひと言で言って、マネジメント能力であると思います。自分の研究を進めていくための調整能力等も含めて、研究マネジメントができるという評価が米国のPhD取得者にあるということです。従って、企業は安心して学位取得者を採用できるわけです。日本の場合、専門的な知識のレベルでは全然申し分ないけれども、いざ研究を実行していくために求められる能力が乏しいと思います。少なくとも、そういう能力があるか否か安心できないので、企業は採用を渋るのではないでしょうか。

松澤 例えばそれは研究システムとして、あるいはPhDのトレーニングシステムとして、米国ではマネジメント力をつけるためのシステムがあるけれど、日本にはないというようなことなのでしょうか。

三浦 米国で大学教員をしている日本人に聞きましたところ、米国の大学では学生が研究室を選ぶ段階でかなり自分のビジョンというのを問われるそうです。学生も、教官が自分をどう教育してくれるか見極めようとします。お互い必死なわけで、ここから日本の場合とまず違っているのです。日本の大学院生は、卒論で割り振られたところにそのまま進学することも多いようです。

加藤 既に入り口段階で日米の学生に差があるということだと思います。

松澤 今のお話ですと大学院に入る段階で、マネジメント力や、そのポテンシャルがある学生がPhDとして採用される、一方、教官も学生とかなり対等な形で、意見交換やネゴシエーションができるということでしょうか。次に加藤先生にお尋ねします。理科系の専門性については日本でもトレーニングする仕組みはあるでしょうが、その前段階として理科か文科かを決める以前のモチベーションあるいは社会人としての能力をどう構築していくかが、三浦さんのお話のポイントかなという感じがしますがいかがですか。

写真3

「理工系人材のビジネスマインドの欠如の実態に
     いささかショックを受けた次第です」と加藤氏

加藤 そのとおりだと思います。同時に、非常に根深いものがあると感じています。私はインターンシップの所管が主たる業務ですが、私の専攻が経済学ということもあり自身は文科系、社会科学系ですので、これまで直接指導する対象に理工系の学生あるいは大学院生は含まれていませんでした。ところが、松澤さんが事実上立ち上げられた派遣型高度人材育成協同プランにも入るコーオプ演習という立命館大学のプログラムが選定されたおかげで、理系の修士1年の大学院生や学生を2005年度後期に指導する機会を得ました。そこでの経験から申しますと、先ほどのご指摘どおり、学生には既に入り口段階で大きな違いがあるのではと思いました。社会科学系の学生たちには、志、時に野望だったりしますが、それを持っている人間が少なからずいます。ところが、驚いたことに理工系の学生たちは違うのです。私が指導した学生に限りがあり特異なケースかもしれませんが、彼らは初めから組織の中に組み込まれることを前提にしているように見受けられます。つまり、まず組織ありきで、そこに従属する人生観を固定化し揺るがしません。社会を変えようとか、一種の社会性、公益性のもとに職業選択をするといった発想がほとんど見られないのです。工学系の教官に確かめましたら、「そんなものですよ」とあっさり答えられてしまいました。そのような枠から飛び出して、何か組織なり社会を変えようという学生が理工系でもいないわけではないのでしょうが、どうやらそれは非常にまれなケースのようで、人文・社会科学系の人材と決定的に違うなという印象を受けました。ポスドクの問題を含めて、これがまさに理工系人材のビジネスマインドの欠如の実態なのかといささかショックを受けた次第です。

松澤 山野井先生、今のお話をどう受け止められましたか。

日本の大学の学問に対する価値観

山野井 確かに文系学生と理系学生のそういった傾向は幾つかのアンケートの結果でも分かりますし、間違いないと思います。これは学生のせいばかりではなく、日本の大学の明治以来の一つの価値観の問題であると思います。理系および技術系では、キャッチアップ型だったのです。そのときに、縦割り型といいますか、一つの学問を取り上げてさらに深めるということに大学の研究なり、あるいは教育の原点として、一番の価値を置いたのです。私のイメージでいうと、大学は小さなコンパートメントがいっぱいあるというイメージです。ただ、お互いのコンパートメントをどうするかについては、これは若者も実は問題意識を持っています。入社3年から5年の間の若者を集めて話してもらうと、まさに企業側が見ているような問題が出てきます。会社に入って自分以外の専攻とのつながりがよくわかったといいます。また、そのつながりが十分ではないと強く感じるともいいます。

PhDというのは工学博士でも理学博士でも薬学でも農学でもありません。要するにDoctor of Philosophyなのです。自然を対象にしたときのフィロソフィー(哲学)をいっているわけで、まずフィロソフィーが先にありです。ところが、日本の場合は最初からフィロソフィーよりも何々学部での専門性に価値を置く伝統なのです。

ですから、米国ではPhD取得者全体の30数%が企業に行く、中央政府にも多数いるのに比べ、日本は非常に少ないのです。社会に出た場合に、日本の博士はそれほど必要とされないのです。その結果、ポスドクで仕事が無い方々が増えてしまいました。これは価値観の問題で、ここから解きほぐさないとそう簡単に片付かないのではと思っています。これが今非常に気になる点です。つまり、特に大学で垂直型に対して水平型も同等に大事なんだという考え方をどう入れていくかです。これは大学の学生に対するカリキュラム次第でかなり変わると思います。

もう1点は、理系学生が、指示待ち体質だとか、問題発見能力が弱いというのは、つまり主体性が低いということなのです。ここで、専門はある程度深める、そしてリベラルアーツを含めたフィロソフィー的な発想を横に広げるというやり方、文系なり経済なりの幅を広げるという内容で学んだ若者の主体性がどうなのかは非常に気になるところです。どうも、主体性というのは、人間が生まれてからの育ち方から出てくるのかとも思います。

松澤 難しいところですね。

山野井 難しいです。ですから、この2つが独立事象なのか、つながっているのかと。つながっていれば、それを広げることで主体性も高まりましょう。これがベストなんですが。

学生の主体性:日本と欧米諸国、韓国との比較

松澤 今の山野井先生のご指摘は私も全く同感です。先ほどの話にあったマネジメント力について、マネジメントをするには主体性がないとできないですよね。それに価値観ですが、明治以来の日本の大学はそれぞれ専門を深めてきていて、指導教官になられている方たちは、当然、そういう教育を受けていますね。そういう専門分野を深めるシステムの中で、かつ学生の主体性を育てるという、非常に大きな転換期に日本は来ているような気がします。そういう意味で、例えば米国なら、学生が主体的にやらないとなかなかPhDを取れないとか、そういった実例や主体性のある学生をエンカレッジする仕組みなど、三浦さん、何かサジェスチョンはありますか。

三浦 米国の大学院では、そもそも主体性がなければ受け入れてもらえないのではないかという気がします。

日本の大学院の場合、理科系では学部卒業後、修士課程にどっと入ります。その後、博士課程に進むか、それとも就職するかが大きな選択になっているようで、教官が残ってほしいなと思うような、つまりほっておいても勝手にどんどん進めていけるような学生の方が、就職活動をして、さっさと就職が決まってしまうのだという話を聞きます。

加藤 私は、主体性の裏側には、社会観があるような気がします。カナダのブリティッシュ・コロンビア大学と立命館大学は交換留学を14年ほどやっていて、私はここ2年ほど多少インターンシップを通じてかかわっていますが、両大学の学生はビジネス界に出るときの職業選択上の発想が根本的に違うな、と感じています。カナダの学生たちは、自分の能力を社会の中でどのように活かそうかというところから発想します。自分はこういう適性がある。それで、ぜひともこの能力を、例えば鉱山でエンジニアとして働くとか、あるいは航空会社で経営のマネジメントをやってという形で発揮したいと発想するのです。主体的な学びやキャリア観の裏側に、しっかりした社会観が存在するのです。一方、日本の学生はベクトルが全く逆で、多くは「自分が好きなものはこれである」から始まります。従って、彼らの発想に、社会という顔が見えません。実際、ちまたの書店の就職コーナーには自己分析の本がやたらうずたかく積まれていますでしょう。あれは要するに、まずは何がしたいのかと己の内面に向けて内向きに入っていくわけです。その上で、この仕事は好き、こちらは嫌いと選別し、一番好きなものとして仕事を決めなさい、と導きます。そこには、社会性や公益性のかけらもありません。

強い社会観は、カナダの学生ばかりでなく、米国やヨーロッパの学生に近しいものがあるように見受けられるのですが、それはどこで植えつけられるのか。小さいころからの家庭なのか、あるいは初等、中等、高等教育を通じてなのか、きっと両方だと思いますが、間違いなく、彼らは社会を見据えて、自分がどこに舞い降りたら一番能力を存分に発揮でき幸せな人生を送れるかという観点で仕事を選びます。そこが主体性の源泉のような感じがします。

山野井 そうなのです。専門はもちろん大事ですが、もっといろいろな意味で幅を広げることが必要で、そのもっと前の段階としての学生の主体性を身につけさせることが重要です。

加藤 加えて、今の学生たちは、20歳としますと、80年代の半ばぐらいに生まれているわけですね。小学校入学時にバブルが崩壊して、以来、テレビをつけても社会的な立場の方々が次々と「申し訳ございません」と謝る姿を見せつけられています。ですから、今の学生たちを中心にした若年層は、ビジネス社会に対して、社会悪のような、負のイメージを非常に強く持っていると感じています。いくつかの統計でも裏付けられています。ですから、人生設計においても、国際機関や行政、NPOというような、営利追求に翻弄(ほんろう)されない人生を送りたいという希望を持つようになるわけです。おそらく、高度経済成長時代の日本の負の遺産といいますか、働き過ぎて、やや歪んでしまった部分を非常に強く見せられているからで、なおさら社会に目を向けず思考や発想が内向きになってしまうわけですね。

松澤 今のお話を聞いて、実は二つ考えさせられることがあります。一つは、確かに80年代後半に生まれた現在の学生が失われた10年-これは日本にとって非常に経済的には不幸だった時期かもしれないのですが-その中で、何となく将来像に対するある種の失望感を持つというか、あまり高望みしなくても自分の世界でうまくやっていきたいという内向きの意識になっている傾向があるのではないかという心配です。そうであるとすると、それはむしろ一つの社会問題ではないかと思います。

一方で、急速に伸びてきた国、例えばNIES*1諸国等は随分違っているように思えます。最近、韓国のいわゆるエリート層の方々と交流する機会が増えたのですが、彼らのモチベーションの高さがすごいのです。平均をとればまだまだ日本が優位性をもつ部分もあると思いますが、上層部の方々の自分に対する「動機づけ」はすごいものがあるなと感じました。私から見ると、今の日本のように、総体的に平均値は高いが沈滞ムードのある国と、モチベーションが高い層が全体を引き上げようと思って必死に頑張っている国との違いが目立つなという印象です。

さらに、私がイノベーションについての研究をやっているから特にそう感じるのかもしれないのですが、海外の理科系の人は、「ストラテジー」ということを非常に強調されますよね。例えば自分には10の能力しかなく、隣の人は100の能力があって単純に比較されたらかなわない場合でも、自分の10の能力を最大限社会なり学会なり外の世界で活かすためにどういう形で仕事をすればいいかということをいつも意識しているような気がします。そういう意味で海外には、自分の力を最大限活かそうとすること自体に価値観を認めてくれる場があるような感じがしています。日本ではどうでしょうか。日本でもストラテジーを持ち、全体の沈滞ムードをどうやって打ち破っていくか、そこを一つでも解決するための仕組みづくりでもできればいいなと思っていますが、何か参考になるようなことはありますでしょうか。

大学に求められる融合型教育とは

山野井 大学教育の中で、ある基礎理論を教える場合、この基礎理論が実は世の中にこういうふうにほかの技術と、あるいはほかの分野と結びつくことによって展開してこういうものができていますとか、こういう社会になっているという話をすることです。そうなりますと、基礎理論であっても教える中で、融合型になると思います。例えば素晴らしい車ができる際は、エンジンの専門家、エレクトロニクスの専門家、タイヤ、材料等々、数多くの分野が関連します。そういうつながりを教える講義が必要ですが、実際にはそういう講義が少ないのです。そして、この必要性を論じている方々は結構多いのです。

松澤 まさしく、それこそ産学連携の人材育成でありインターンシップの出発点だと思います。

山野井 それがベースです。それは主に修士課程や博士課程の学生にアンケートをとったり、インタビューしたときの回答でした。

加藤 私事ですが、私自身は生え抜きの大学教員ではなく、20年間民間にいました後、近年大学に移り、インターンシップをはじめとするキャリア教育に携わっています。両方の世界を見てきて強く思うのは、これまで大学での授業では、今勉強していることが学生本人の人生にとってどのような意味を持つのか、あるいは社会に出たときに、どのようなつながりがあるのかが、必ずしも明確に説明されなかったように思えます。原因は、大学の教育が研究者養成に偏重していたからだと思います。授業を受けている学生の9割9分は、ビジネス社会に出ていくのですから、これはもう、完全なミスマッチなのですね。それを少し組み替えることこそが、キャリア教育だと考えます。

私のキャリア教育論の柱は2つあります。一つは教え方です。申し上げたように、学んでいることと社会をつなげてあげる、意味を教えてあげる工夫が柱の一つに置かれるべきです。もう一つは、体験です。こればかりは、教室では教えられませんから。このように、キャリア教育とは何も全く新しいものをつくるのではなくて、ほんの少し組み替えるだけでよいのです。つまり教える側のちょっとした意識の持ち方や教え方の工夫で、十分にビジネス社会に通用する人材を育むことができると考えています。

三浦 少しの組み替えといわれましたが、そのハードルはすごく高いと思います。今、大学の教官は教育者としての評価基準がないと思います。研究者の評価は、論文数などで評価できますが。この評価のところで、大学の管理層は大いに悩んでおられますよね。

加藤 少し風向きが変わってきたかと思います。文科省を例にとれば、COEや各GPにおいての第一段階は役割を終えようとしていると思っています。この段階では、教育や人材育成の重要性を意識付けするのが目的で、頑張っているプログラム自体を評価してきたという意味で、プログラム評価の段階であったと思います。でも、それも終わろうとしているのではないでしょうか。プログラムからパーソンへ。教育への取り組みが、プログラムから中身へ、つまり担当者の顔の見えるパーソン評価の時代に移りつつあるように思います。となりますと、頑張っている個々の教員にとっては間違いなく追い風と言えるのではないでしょうか。

山野井 大学が基礎研究を深めることは言うまでもなく重要であり、大学の使命はそこにあります。しかし最近では、有力な大学の中に、この専門性というコンパートメントの壁を取り払って、大部屋にいろいろな専門をぶち込んでその中で新しい価値を生み出していこうとする方向も出てきています。こういう試みは見られますが、ただ問題は、教員全員が、学生も含めて、そう思っているのかということです。さらに気になるのは、コンパートメント型の場合にはそこの一つ一つのコンパートメントには学会がついています。従って研究成果は学会で発表できますが、水平型の大部屋的やり方ですと学会がついてこないのです。

松澤 どうやって研究成果が評価されるかの問題がありますね。

山野井 若者も、評価されなければ物足りません。そして、教員の教育への貢献をどうやって評価するかという問題も出てきます。大部屋型の研究で成果を上げた人をどう評価するかです。これらを一つずつ、全部変えていかないといけないのです。評価はインセンティブにつながります。欧米に伍して競争力を持つには、垂直型、水平型両者のやり方がありますが、基礎研究をしっかりやる必要がある。一方で、複合的、融合的研究も必要であり、それがイノベーションにつながる。このあたりをしっかりと考えるべきです。

写真5

     「垂直型と水平型の評価は『アンサー』と
          『ソリューション』の違いだと思います」と
          松澤氏

松澤 今の加藤先生と山野井先生の話を聞いていて、実は自分のことで思い起こすことがあります。学生がコースを選択するときに、日本とイギリスの大学院についての個人的経験からすると、コースの履修の仕方が違うと思います。イギリスの大学院では、選択したコースについて、学生はどの科目を取るのかデクラレーションが大切です。つまり、将来何になりたいか、将来こういう分野に行くのであれば、これとそれとこの講座は必修である、それらを取らなければならないという意識が明確のような気がします。従って、学生は一人一人オーダーメイドで、どのコースをどういう形で組み合わせて取るかということをカウンセリングされました。これを日本の場合もやるといいと思います。今のコースメニューの意味付けが変わるのではないかと思います。

大学の基礎研究(垂直型)追求と異分野との連携

山野井 これまで申しました大学の最も大きな使命は垂直型の分野で、どんどん深められることです。水平型であるとしても垂直型が進歩しなければ大したことになりません。垂直型も水平型も大学以外にやれるところはありません。水平型でやることが垂直型にも、互いにプラスになるかどうかを大学の先生にお聞きしたい。私のイメージから言うと、PhDのフィロソフィーというのは、まず専門ではなくて、広くやった人がある専門をやった場合に、より深い、素晴らしいことを生むのではないかと思うわけです。そうすると、人材育成のときに、両方の型でうまく一人の人間がかかわったとき、プラスになるのではないかという点です。つまり、一つの問題を解こうとしたときに、いろんな切り口を持てるということです。そこで過日、大学の先生に果たしてそういうことがプラスであるかと伺いました。そのとき、総じてプラスとの回答をいただきました。加藤先生はどう思われますか。

加藤 そのプラスであるという認識はどなたも否定することはないと思います。

山野井 だとしますと、やはり、水平型、垂直型を分けずに一つの集団として考えた方がいいということになります。若者を鍛えるときには、垂直型に行く人間も、水平型に行く人間も、水平型の知識を増やすことで垂直型も進歩するのであれば、それは一つの集団としてそういうふうにカリキュラムを組んだ方がいいのではないかと思います。

松澤 私も実は米国と日本の学部や大学院のコースメニューを調べたことがあります。米国の学部段階では、ありとあらゆることを勉強させますよね。その中から当然、自分はどこが優れているのかなどがわかり、先ほど申し上げたように、最大限自分の能力の使い方を勉強させて、将来像をまさしく想定しながら戦略的に大学院でのコースアドバイスをします。

先ほどの山野井先生の、どうやってインセンティブと評価を大学に与えるかということに対する一つの解答があるのではないかと思います。海外では、卒業生がどの世界でどういう形で活躍しているかを、大学がきめ細かく把握する努力をしているところもあります。つまりフォローアップが大切です。どれだけの人材をその大学が輩出したか、大学の評価に結構反映されていると感じます。

これまでのお話をお聞きして垂直型と水平型の評価は「アンサー」と「ソリューション」の違いだと私は思いました。アンサーは、先生からこう言われて、それに対する一番いい解答のことです。垂直型であれば、これは非常に答えやすいわけです。しかし、現実の世の中では、アンサーを出せるものよりも、みんなで寄ってたかって解決策を考えなければならない、つまりソリューションの能力の求められる課題の方が、社会的な比重が大きくなっているのではないでしょうか。ここでは水平型の人間の導入が必要になってきます。それが先ほど皆さんがおっしゃったマネジメント力なのかもしれません。

確かに、既存の学会の中で評価されることがその大学の評価につながると思いますが、大学に対する評価の「幅」というのはもっといろいろあってよいのではないかという感じがしています。社会というか、ほかの集団と学会の間の人材のインキュベーションの仕組みも実は大学が潜在的に担っているという感じがしていて、その機能が日本と海外では随分違うんじゃないかなという感じがするのですがいかがでしょうか。

加藤 今の日本の大学はそういった評価に堪えられません。水平型と垂直型を行き来できるようなものを誰が指導するのかと言われたら、ほとんど無理です。カリキュラムも対応していないし、指導教員も改めて養成し直さなければならないでしょうから。



●司会進行:松澤 孝明

(文部科学省 科学技術政策研究所 第3調査研究グループ
     総括上席研究官(当時)/本誌編集委員)