2007年2月号
巻頭座談会
RSP事業(ネットワーク構築型)を振り返る
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稲村 實 Profile
(いなむら・みのる)

元 財団法人 岡山県産業振興財団



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小坂 岑雄 Profile
(こさか・みねお)

財団法人 科学技術交流財団
クラスターマネージャー


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丸山 敏彦 Profile
(まるやま・としひこ)

丸山技術コーディネート研究所



聞き手:遠藤 達弥 Profile

(財団法人 全日本地域研究交流協会
事業部次長)

RSP事業創設時にコーディネータを引き受けられた理由から当時のコーディネータとしての活動、現時点でのコーディネータ論、今後の在り方など示唆に富む話を満載。初期の産学連携が明らかに。

コーディネータを引き受けた理由

●本日は、RSP事業、特にネットワーク構築型を振り返っていただきます。ネットワーク構築型も平成15年が最終ですので、それ以来、既にほぼ3年たちました。初めに、本日の出席者の方々がコーディネータになられたきっかけと、その当時の産学連携の状況をお聞かせください。

丸山 科学技術庁(現 文部科学省)が平成7年に科学技術基本法を制定し、その中で地域の科学技術振興を一つの柱とし、それにかかわるコーディネート機能を高めるためにRSP事業を創設したと聞いています。当時、私は公設試にいまして、退職後も地域企業の技術支援をしたいと思っていました。RSP事業が平成8年10月にスタートした時のコーディネータは全国で7人で、公設試の出身は私1人でした。そのころ、産学官という言葉はあっても、私の印象では産学官が集まれば何かできるといった錯覚みたいなものが非常に多かったような気がします。誰が産学官で横並びにして引っ張るのか、どんな形でベクトルを合わせていくのか、そういった考慮は足りなかったように思います。

最近の産学官連携では、だいぶ実績も出ていますし、広がりが出てきましたが、当時は特に北海道の場合、官が産学官連携に主導的に取り組み、その必要性を強く感じているようでした。

それから、当初はコーディネータの定義は不明確でしたが、結局、私は大学の研究成果を発掘し、それを育成して事業化に結び付けるための仕事を7年半してきました。今はコーディネート活動は当然の行動との認識になってきていることはうれしいことです。

稲村 最初は単にRSP事業といってネットワーク構築型という名前は付いていませんでした。平成11年に研究成果育成型を創設するに当たって、ネットワーク構築型という形容詞が付いたのです。

丸山 研究成果育成型とはっきり区別するために、ネットワーク構築型をまず作っておいたということでしょう。ネットワーク構築型ではコーディネータは1人体制でしたが研究成果育成型では4人体制になりました。コーディネーション機能の強化ということでしょう。

小坂 私のいる愛知県ではRSP事業以前にテクノサポーター事業というものがあり、産学連携は決して不活発ではありませんでした。RSP事業が始まったのはバブル崩壊後の経済状態が非常に悪い時で、何とかして日本経済の再興につなげようとする政府の一連の政策の中でした。そんな中で愛知県の科学技術交流財団が平成6年にでき、RSP事業が置かれたのが平成8年です。当時私は国立研究所に在籍していて、財団の相談にあずかっていましたので、その縁で私もコーディネータになりました。日本初の職能ということで大いに緊張しました。

RSP事業初期のコーディネータは

小坂 当初1人体制であったコーディネータ活動は大変な手探り状態でした。何とかして中小企業に役立ちたいとの思いから、ビジネスにつながるアイデアを随分と提供しました。後に研究成果育成型ではコーディネータは4人1組になったのですが、1人のときと4人のときの評価体制の違いに周辺からも多少の意見があったと思います。例えば4人で研究開発の評価を行うと評価がばらばらになりがちです。一方、1人で行う場合は間違いも多いのですが、個人的な判断の中で評価する限りでは筋が通ります。1人のときと4人でやるときとは少なくとも仕事の性格が異なっていたような気がします。

稲村 私は、もと電機会社の現場技術者でしたが、岡山にある関係会社に工場長として在勤中、土日は岡山県工業技術センターの技術アドバイザーをしていました。その後RSP事業が始まり、私がそのコーディネータになりました。岡山県は平成10年からで、そのときRSP事業は発足から3年目でしたので、全国で20県、合計20人のコーディネータ体制ができていました。しかもある程度RSPの事業内容ははっきりしていました。

例えば、まず[1]探索分野を設定し、[2]研究人材や技術ニーズを探索調査し、[3]研究と技術のシーズ・ニーズを結合し、[4]研究開発プロジェクトを企画し、[5]地域合意を形成し、[6]その成果を地域内外に発信する、などです。加えて、[7]岡山県独自の種々のコーディネート活動を行う、という指示です。具体的には、「やる気のある中小企業」のニーズを拾うことでした。そのころ既に私は兵庫県の工場に戻っていましたが、岡山県で採用したコーディネータが辞められたので、私はその方のリリーフとして岡山県に再度かかわることになりました。

コーディネータ会議に出ますと、企業出身のコーディネータは少なく、大学関係、公設試など学、官出身の方が多かった印象です。これまでの社会生活から私は企業のニーズは探しやすかったのですが、大学の研究シーズはコネがないこともあり、ゼロからの出発でした。

●北海道の場合、道庁だけが積極的で、その他は全然関心が無かったのですよね。

丸山 当初はそうです。北海道には愛知県の科学技術交流財団ほどの産学連携機能を持つ受け皿は無く、しかも北海道は一次産業を中心にした産業構造ですから、産学連携のアプローチも違っていました。どちらかというと、私の場合は企業ニーズをあらかじめ設定して、大学の研究成果を応用したことが多かったと思います。

つまり、ニーズの先取りをしながら、シーズを持っている先生と会って、その技術支援を企業と一緒に働きかけるというやり方です。RSP事業の良いところは自分で責任を取れることでした。つまり、いくばくかの研究費がコーディネータに預けられていますので、自分で発掘した技術シーズの育成に関して、責任を持ってハンドリングできたことです。コーディネータにはある程度の権限を与えないとその活動の意味が失われます。1人でコーディネート活動をしていたころは各地域のコーディネータとも皆必死でした。

小坂 1人でやる責任感も大変でしたが、その代わり、充実感も、達成感もありました。

丸山 それはもう真剣にやりました。責任持ってやるということですからコーディネータは決して黒子でないと強く思います。

小坂 今は、コーディネータの上に何かと委員会をつくり、コーディネータはネタを拾ってきて、審査委員会の前に並べて見せるだけの役になっている運用が多いのではないでしょうか。

当時の大学の産学連携への取り組みは

●当時、大学はどういう感じでしたか。

小坂 産学にわたる人脈の中でやりながら考えてみる、というアプローチでしたが、大学はまだ「国立大学そのもの」という気風がありました。特に契約関係が大変でした。

丸山 当初は科学技術振興の大きな柱を実行する上での人材を提供するという提案があり、つまりコーディネータによるコーディネート機能を大学が所在する各地域で高めようということでの大学の関与でした。そのようにする場合、広く大学の成果を拾い上げて、企業と一緒に連携できるネットワークが必要だったのです。そのころから各地の大学に地域共同研究センターがいくつもできました。大学の研究成果に軸足を完全に置いたのは、これら地域共同研究センターができだした後のことです。

稲村 岡山の場合、シーズ探しに苦労したと言いましたが、大学からのシーズは探せば系統的にあります。その後、企業のニーズを把握する方が難しいことが分かりました。岡山大学地域共同研究センターは系統立ったデータが取れるという点で有用でした。

小坂 ちょうど科学技術振興機構(JST)が文部科学省に帰属することになったあたりから、産学連携は明確に大学のシーズに軸足を置くようになったと思います。

稲村 岡山ではテクノサポートといって、財団と同じところに地域共同研究センターや県の工業技術センターがあります。レストランも同じ場所にあるので、それぞれに所属する方々との交流ができています。一方で、地域共同研究センターと大学本体は地理的に近くないので、学内の連絡を密にするのに苦労されているようです。最近はセンターの職員は大学の本部にも席を設けるようになりました。

丸山 全国にはTLOなど、いろいろ組織ができたのもこのころです。

稲村 TLOについて言えば、米国の成功しているTLOを調査するために米国出張したことがあります。調査したTLOの多くは学内組織のTLOでした。岡山県のTLO設立委員会ではこの米国出張での調査経験を吐露し方向付けをしました。

丸山 いずれにしても、何か新しい仕組みが出ると、それらがまず独立して行動するという話になります。補完し合う立場のはずの組織が、逆に個々にばらばらになっています。これからは統合していく方向が大事でしょう。国の研究資金も無限ではなく、研究成果を効率的に有効に使う手立ての鍵は、高いコーディネート機能にあると思います。

RSP事業のコーディネータ活動の波及

丸山 これからはコーディネーションという仕事は非常に大事になってきて、新たな職種としての期待感があります。産学官のベクトルを合わせ、機能させる人材の重要なことへの共通認識が定着してきたと思います。そういう意味で、RSP事業が果たした役割は大きかったと思っています。

稲村 RSP事業の大事な波及効果の一つに当初は1人だった岡山県のコーディネータが、現在ではその54倍の54人に増えたことです。

小坂 とにかくそのあたりまで、JSTを知らなかった中小企業が多かったですよ。われわれRSP事業コーディネータが中小企業を対象に活動したことによって、JSTの存在が広く中小企業に浸透したと思います。

丸山 経済産業省の政策自身は、大手企業志向です。JSTの場合も基礎研究を含めた科学技術ではその主体が大手企業であり、実際に中小企業までは対象を広げていなかったと思います。コーディネータはベンチャー企業や中小(零細)企業とも付き合っていました。それが重要な役割の一つでした。

●可能性試験*1の存在が、大学に入り込みやすくしたといろいろなコーディネータから伺いますが。

小坂 私は6年ほど大学で仕事をしていましたので、大学に出向くことについて全く違和感はありませんでした。しかもコーディネータとして少ないながら資金を持っているわけですから。しかし、3年間で、直接大学の研究者に資金をお渡ししたのは3、4件であったかと思います。まず企業と契約して、そこから大学にコンタクトするようにと企業に要請し、根回しもしました。企業は必ず何か試作品を作るからです。

稲村 ただし、中小企業は報告書を書けないところが多いのです。一方で、元気な中小企業は「少額の資金を受け取って、膨大な報告書を書くのではちょっと……」、というところがありますね。

小坂 大学の研究成果は最初からストレートに事業化に結び付くことは少ないですから、その成果を使って、企業ニーズへの実証のための試作品を作るなり、実験が必要となります。そのためのRSP資金(可能性試験費)はコーディネータの考えを生かしていくうえで不可欠でした。

小坂 当時使える金額は1件あたり50万円、100万円程度で、これは実証には有効であったのですが、事業を新しく興す額ではありません。しかも使い方にコンプライアンスの問題がありますので、帳簿、書類、会計に多大の時間を使わざるを得ませんでした。

少額の補助金は全く企業いじめであると言う民間人もいますが、それぐらい書類と報告書作りがきつかったわけです。

丸山 そのようなことで、RSP事業では事務の人も付けてくれました。

●補助金は出したけれど、事業化までいかなかったという、いわゆる失敗例はありますよね。

小坂 研究は大化けすることがあるのですね。企業は失敗を失敗のまま放置するのではなく、そのとき培ったいろいろなノウハウや技術は必ずどこかで使おうとします。当初のシーズはコスト割れで実現しなかったが、別方向で商品化した例も多いので、3年くらい経過的にフォローアップをしないと本当のところは見えてこないです。

丸山  その点でコーディネータの果たす役割が大きいと思います。研究者がいくら自らの研究成果を良く評価したとしても、その通りには実用化に結び付かない。かえって途中で技術開発の方向に口を挟んだことから、実際のビジネスになることもあります。従って、コーディネーションプロセスにはいろいろとあって1年、2年で止めたら駄目なのです。

小坂 ある意味でコーディネートは死ぬまでの仕事ですね。

丸山 そうです。RSP事業を日本で初めて導入し、実施した意義は非常に大きいと思います。従って、単なる時限的に何年かの成果ということではなくて、これからどのようにつないでいくのかが問題です。

稲村 その意味では、RSP事業が時限立法で終了したことに問題があると思います。ある共同研究をRSP事業(可能性試験)で扱うのは1年間ですが、企業の活動はずっと続いていくわけです。

岡山の場合、RSP事業が終わった年に研究成果育成型の募集が中止されました。その翌年、今度は岡山県独自でRSP事業の継続事業を興しました。そこで私は県の産学官連携コーディネータに採用されました。最初のRSP事業の趣旨では、事業が無くなった後は、地域独自でその継続事業を行うよう基本的に謳われており、岡山県はその通りしたのです。

丸山 RSP事業を受け入れた各地域では、本事業が終了した時点で、だいたいの県はJSTレベルの事業は終えました。実は、北海道でも、ポストRSP事業を立ち上げましたが、RSP事業コーディネータの継続性は無くなりました。

小坂 愛知県では、RSP事業の終了後、県独自で予算を作り、2人のコーディネータが配置されました。RSP事業(研究成果育成型)で私と一緒にコーディネータの仕事をした方は4人いましたが、彼らはそれぞれ県内の大学や財団に雇用され、コーディネータ職につきました。その意味では、コーディネート制度が根付いていると思います。

国公立の大学にはいろいろな制度でのコーディネータが多くなりました。私はコーディネータ制度は発足以来10年経過し、見直しの時期にあると考えます。

地域でコーディネート事務所を一つ置き文部科学省関係だろうと、農林水産・厚生労働各省関係だろうと、あらゆるコーディネートができるような仕掛けを作って活動するのが良いと思います。現在、県や市、公的研究機関や経済団体にもコーディネータがいて、個々のコーディネータは過剰気味だと思います。そこで、それらコーディネータをひっくるめて1カ所に置いたら、無駄な投資を省けるように感じます。

稲村 岡山県の例を申し上げますと、当初のRSP事業では私1人がコーディネータでしたが、実は財団の同僚が随分私をバックアップしてくれました。彼らは財団を辞めてからも県内の大学・市役所・銀行・第三セクター機関でコーディネータ的な仕事をしています。そういう形でどんどん増えていき、公的コーディネータが54人活躍しています。

RSP事業が端緒となって岡山県が種々の事業を興しています。つまりコーディネート事業がずいぶん膨らんできているわけです。成功事例を作るには多くの人が関係した方がいいと思います。

今後のコーディネータの役割とは
-公設試の役割とプロデューサー的役割-

丸山 コーディネート機能を考えるとき、チームアプローチで技術移転に当たるコーディネート機関が必要になります。各地域においてその役割を担うのが公設試でしょう。これこそが新しく公設試に求められてきている大きな役割の一つです。全国的にも公設試が地域のコーディネート機関としての役割を認識してきていることは非常に心強いことです。

稲村 やはり県地域の中では公設試の職員が、今まで一番コーディネートを行うべき適当な職にありながら、職務として狭い範囲を果たしてきたように思います。彼らの職域を広げることが、日本全体の活性化につながることだと考えます。

小坂 プロデューサー(後述)的なことが最近は本当のコーディネート機能ではないかと考えています。愛知県では公設試職員のうち3名をコーディネータとして発令しています。

丸山 これからのコーディネータは企業に対して「こういうものが必要ではないの?」というアプローチをしないと、企業は胸襟を開かないですよ。

小坂 大学シーズの橋渡しはいいのですが、最終的な目標はやはりニーズを作るということです。具体的な開発目標あってこそ、ニーズ・シーズと言えます。

稲村 本当に実力のある成果の出せそうなコーディネータは企業の製造技術者の中にいます。

丸山 RSP事業のコーディネータは、技術開発のアーリーステージ対応までで、私自身もビジネスまで持っていける力は無かったということです。

問題は継続的に次々とコーディネートしてビジネスモデルとして成り立たせることです。そのために企業価値をどう高めるか、ビジネスモデルの価値化サイクルをどう駆動させていくか、脱皮の繰り返しに対するコーディネーションが重要です。

図1

図1 平成17年度シーズ育成試験 コーディネータ
     所属

稲村 ネットワーク構築型のRSP事業は、そこまでやるという事業ではなかったのです。しかし大きな波及効果が出ています。基盤を築いたということでしょうか。一例として、平成17年から始まったJSTの「シーズ育成試験」で、採択件数の上位地域には平成8~10年度実施地域20県のうち11地域が全国15位までに入っています。特に岡山県は、岡山大学所属のコーディネータと岡山県産業振興財団所属コーディネータが合計で採択数16件(全国で500件のうち)で堂々全国3位の成績でした。産学連携のマッチングで活性化している地域のうち、上位にくる地域はすべてネットワーク構築型でコーディネートしたところなのです。

RSP事業でネットワーク構築型が始まったときは、官に軸足を置いて、それをどうするかということでやっていたのが、途中でJST自身が学のほうを向くような団体活動に変わってきたわけですね。これが主流になっていることが問題点であると思います。ほんとうの意味で産業、特に「やる気のある中小企業」をもっと元気にするためのコーディネート活動ということから見れば、今後に問題を残しているとは思いますね。

丸山 研究シーズはあくまで人材であって、その人材が実施したテーマが研究ニーズなのです。従って、研究シーズ・ニーズと技術シーズ・ニーズの間にはギャップがあり、その間を埋めるための、実践的なコーディネート活動が極めて重要になってくるわけです。

そのような活動が小坂さんが言われているプロデューサー的役割でもあります。

小坂 愛知県には、豊田=自動織機や鈴木=バイオリンのように、当初は周囲の反対・冷笑や妨害に悩まされながら、事業化に成功した先人たちが多くおられます。これらの事例から学べるのは、研究開発の良否は当事者の情熱や人柄にも大きく影響を受ける事実でして、第三者である多人数の評価委員会がそのあたりの判定を行うのは無理です。私論ですが、今までのような評論家的コーディネートから脱して自身で責任を持ち、研究テーマを明示して人や資金を集め、計画を着実に進めるプロデューサー的コーディネートの実現が待たれます。

今後のコーディネータの在り方についての提言

小坂 RSP事業の当初と現状とは、かなり仕事の作法が違ってきているなという感じがしていますが、10年間、非常にいい成績を収めて、コーディネータ運動を実施したというのも事実です。それでも10年目を迎えて、コーディネータの免許制とか、何か価値観の転換があってもいいかなと思います。

丸山 多くの研究開発制度ができ、それに伴って配置されているコーディネータはその数も多くなり、活動状況もさまざまです。これからは地域を越えたコーディネート機能を備えるためにもそれらの総合化も必要かと思います。

小坂 大学等の経営自立を図る目的から、今後、大学のシーズは大学の中で企業化される方向になりませんか。そのためのプロデューサーが不可欠と思います。

稲村 学の中で学学連携ができれば、それは確率の高い話だと思います。しかしコーディネート活動に関しては、日本のように隣と仲よく一緒にやりましょう、おみこしわっしょいわっしょいというのは駄目です。もうかるようにはなりません。米国出張中、福岡の斉藤コーディネータが、あちらのやり方は「ゆりかごから墓場まで」面倒見ていると知って、その後よく口にされています。インセンティブのある1人のコーディネータが単独で、ずっと最後まで面倒を見てあげるシステムが要るのです。

丸山 公設試が大学の先生の考え方を理解しながら、企業に移転していくような役割を担ってくれればうまくいくと思います。モノ・サービス作りとなるとコーディネータの役割が大事になると思います。これからのコーディネータは、プロデューサー的な役割を持たなくてはいけません。一方では具体的にサービスの視点もなくてはなりません。

小坂 現在、私が愛知県の中でかかわっているプロジェクトがいくつかありまして、そこには以前RSP事業でいろいろお付き合いを願った企業さんが入っています。そういう意味では、これも長期的に見てRSP事業でのコーディネート活動のフォローアップの一つなのではと思います。

例えば、当初、私がお付き合いを始めた時は従業員が6人だったあるベンチャー企業が、最近、60人近くにまで膨らんで、マザーズに上場したという事例も出ています。企業が一人前に大きくなるのに10年かかる一例ですね。

稲村 RSP事業からベンチャー企業を興したという例はあります。しかしその企業はバイオ関係で、いまだに売り上げのめどが立っていません。しかし、4年前にフォローアップして波及効果を調べた結果、まずRSP事業ネットワーク構築型(可能性試験)に取り組んだおかげで、[1]大学と交流が密になったこと、[2]ある一部上場の企業から出資を受けられたこと、[3]従業員が増えたこと、[4]RSP事業がきっかけでほかの補助金制度に採択されたこと、[5]貸し研究室を退出し自前の新社屋をしゅん工したこと、ならびに[6]米国の会社とライセンス契約を締結したことなどが実現しました。それでも現在国内では売り上げが立っていないわけで、長く継続できるコーディネータが必要であると思います。

小坂 コーディネータと起業者が血の涙を流さないことには企業は育ちません。今は大学との利益相反の問題も出てきますので、企業の世話をするのは大変な仕事です。

●RSP事業のネットワーク構築型にかかわられた方から、コーディネータの経験からコーディネータ論まで幅広くお話しいただきました。本日はどうもありがとうございました。

(記事編集:稲村 實 元岡山県産業振興財団)

*1
RSP事業では、本格的な研究開発プロジェクトのアレンジに先立ち、その可能性を見極めるための「可能性試験」(FS:Feasibility Study)を実施した。