2009年1月号
特集  - 一極集中を打ち破れ 「愛」と「技術」が地域を救う
「Rubyの松江」を世界に 根付くか地方のIT文化
島根県松江市では行政、大学、IT業界が連携して、コンピューターのプログラミング言語Ruby(ルビー)によるまちづくり、産業振興に取り組んでいる。Rubyを開発した「まつもとゆきひろ氏」が同市を拠点にしていることや、この分野で最大手のIT企業の本社があることなどが背景だ。東京一極を打ち破り、地方に独自のIT文化を根付かせようとする活動だ。

「プログラミング言語Ruby(ルビー)の開発者『Matz(マッツ)』といえば、世界的に有名なエンジニアだ」「2月は米オレゴン州、4月はデンマークのコペンハーゲン、9月は米テキサス州。今年になって招かれる講演会はどこでも基調講演という主役扱いだ」

週刊誌「AERA」08年10月13日号は「現代の肖像」シリーズでMatzこと「まつもとゆきひろ氏」を取り上げ、なぜプログラミング言語を自作しようと考えたのか、なぜRubyのユーザーが増え発展しているかについて同氏の人間像から迫っている。

プログラミング言語とは、開発者専用のソフトウエアをつくるためのソフトウエア。Rubyは、ソフトウエアの設計図となるソースコードを誰でも自由に使えるように無償で公開するオープンソース・ソフトウエア(OSS)である*1

日本経済新聞は「他の言語の十分の一程度の行数で同じ内容のソフトが書ける」簡潔さ、高い生産性を「Rubyの奇跡」と表現した(06年11月3日、連載「成長を考える」)。IT(情報技術)の「日本発で世界に広まった稀な成功例」(前掲AERA)でもある。

Rubyとかオープンソースといっても一般の人にはなじみが薄いが、国内最大のインターネット商店街を運営する楽天株式会社がRubyの最大口ユーザーといえば、多少身近に感じられるだろうか。

そのまつもと氏の開発の拠点が島根県松江市である。同市にとってRubyは地域の強力な“資源”。2年ほど前から行政、大学、IT業界が連携してRubyを活かしたまちづくり、産業活性化に取り組んでいる。

松江市がRubyにより地域産業振興策

具体化の第一歩は、2006年7月、松江市がJR松江駅前のビルにOSSに特化した研究、開発、交流の拠点「松江オープンソースラボ(松江市開発交流プラザ)」を開設したこと。2007年度に策定した市の総合計画に、Rubyを核としてソフトウエアに関する活動を支援し地域産業の振興を図ることを盛り込んだ。「Ruby City MATSUE」プロジェクトである。

松江市は県都ではあるが人口は20万足らず。企業を誘致しようとしても、財政規模が違う大都市には太刀打ちできない。「地元にある資源を活用することを考えた。いろいろな人に相談するなかで、まちづくりのなかに産業振興の切り口を入れた」とRubyプロジェクトの仕掛け人でもある田中哲也松江市産業経済部参事は語る。

IT企業などの協議会が駅前の交流拠点でセミナー

「松江オープンソースラボ」オープンの2カ月後、IT企業、大学関係者らで組織する「しまねOSS協議会」が発足した。県、市からも職員が個人の資格で参加している。

それ以前から、島根大学法文学部の野田哲夫教授(同大総合情報処理センター長)の研究室等に毎週のように産学官の有志が集まり、OSSをベースとした地域コミュニティーについて熱い議論が行われていた。06年度初頭に協議会設立準備を始め、市のRubyプロジェクトと歩調を合わせるように具体化させた。同プロジェクトの推進役である。会長はIT企業の株式会社ネットワーク応用通信研究所(松江市学園南)社長の井上浩氏、副会長は野田教授である。当初、11社だった法人会員は現在、31社になっている。

このOSS協議会が、松江オープンソースラボを拠点にして続けている活動が「MATSUE」を世界に発信し、企業を松江に呼び込んでいる。

協議会の活動の中心は、県内外からオープンソースにかかわる経営者、開発者、行政担当者などを招いたセミナー(「オープンソースサロン(写真1)」と呼んでいる)。月に1、2回開催しており、これまでに34回開催している(注:34回目は11月21日開催)。

「運営の経費は会員の会費だけ。年間70万円で、十分な謝礼を差し上げられないが」と、同協議会の事務局長を務める島根大学産学連携センターの丹生晃隆産学連携マネージャーは語るが、半ばボランティアで講師たちが全国から来てくれるのも「Rubyの松江」に引かれてのことだろう。

このほか、同協議会は情報交流会(写真2)、技術交流会、米国OSS事情視察ツアーなども行っている。

大学が「情報と地域」の講座
写真1

        写真1 第31回オープンソースサロン
             (2008年7月4日開催)の模様



写真2

             写真2 情報交流会の様子

OSSはネット上のコミュニティーで開発を進めていくもので、組織的な責任体制はない。しかし「Rubyのユーザーを広げたい時に、ばらばらに動いていたのでは困る。標準的な仕様が求められている。特に、ビジネスに使っている大手ユーザーからそうした安定化への要求が強くなっていて、大学は研究開発面でバックアップしている」と野田教授。

同大学では07年度前期に「情報と地域—オープンソースと地域振興」を開講。OSSにかかわる研究者、企業家らを招いてのリレー講義である。同年度後期は松江市から100万円の助成を受けRubyプログラミングを学ぶ講座を行った。今年度前期は財団法人電気通信普及財団の援助でやはり「情報と地域」、後期は前年に引き続き市の支援でRubyプログラミング講座を開いている。

島根県も情報産業振興に力を入れている。06年度に1,092人だったソフト系IT産業の従業者数を2011年度に1,600人にまで増やすのが目標だ。「IT人材育成」「実践型OSS開発人材育成」など広範囲な施策を展開している。今年度、人材育成ではRuby関連の2~3日にわたる講座を8回、さらに学生向けの夏合宿も実施した。また、IT企業で構成するしまねソフト産業ビジネス研究会と連携して首都圏への販路拡大・業務獲得に注力している。

動き出したRubyビジネス

産業界の動向を見よう。中心はしまねOSS協議会会長井上氏が社長を務めるネットワーク応用通信研究所である。Ruby開発者のまつもと氏も同社のフェロー(特別研究員)。同社はOSSの代表格であるLinuxの国内最初のポータルサイト(http://www.linux.or.jp)の保守運用を当時同社の役員であった生越昌己氏とともに行っていた。

Rubyの普及に弾みがつくきっかけはデンマークの技術者がウェブアプリケーション開発フレームワーク「Ruby on Rails」をつくり公開したことだった。Rubyという言語でソフト、システムを開発するときに利用できるツールだ。日本におけるその第一人者の前田修吾氏も同社に在籍している。

OSSのRubyは誰でも自由に使えるが、どうビジネスにつながるのか。楽天が07年春、Rubyを採用したとき、ネットワーク応用通信研究所が全面支援している。同社には楽天からトレーニングプログラムの受講料収入があり、また、Rubyでソフト構築ができる開発環境を楽天に販売した。その後、両社で新たなシステムの共同開発を進めている。

技術、ノウハウの高さ、先行の強みがある。井上社長は「IT企業や大手ユーザーがRubyで何かをしようとしたら、必ず当社に相談してもらえる」と自信をのぞかせる。既に同社の年間約5億円の売り上げのうち、Rubyに関する開発(コンサルティング、サポートなど)が30%、Rubyに関する教育が10%を占める。

当面の課題はRubyをプログラミング言語として標準化させること。「標準化のうえに実装されていれば仕様書にも書くことが可能で、政府調達にも対応できる」「全国でRubyのビジネスが広がれば、松江のこれまでの取り組みが実る」。井上社長の夢は膨らんでいる。

ベンチャー企業創設も

起業の動きもある。大手警備会社に勤めていた前田剛氏が08年9月9日に設立したファーエンドテクノロジー株式会社(松江市母衣町)だ。同氏は07年10月、Redmineというソフトウエア開発のプロジェクト管理を行うソフトの日本語情報サイトをつくり、維持している。Redmineはフランスの技術者がRubyでつくったもので、この分野では先行している。

ファーエンドテクノロジーの柱はインターネット上でのホスティングサービス。ホスティングとは、インターネット上でサーバーの容量の一部を貸し出すサービス。現在はRedmineのホスティングサービスを、有償への切り替えを前提に試験的に無償で60件ほど提供している。「当面、経営は一般のシステム開発受託が中心となるが、松江市がオープンソースを後押ししてくれているので環境は悪くない。全国を商圏とし、将来は自社製品も手掛けたい」と語る。

県外から3社が立地

こうした松江の産学官の取り組みのかいがあり、08年9月12、13の両日、全国的な催し「オープンソースカンファレンス2008」(会場はJR松江駅前の松江テルサ)を誘致することができた。延べ150人の宿泊者がいた。

日経BP社のサイト「ITpro」に「オープンソース/Linux」というコンテンツがあり、そのなかにRubyコーナーが設けられている。ここでも松江に関係する情報が大半だ。

このほか、次のような「成果」もある。

写真3

松江市がつくった「Ruby CityMatsue」をアピール
     するバッジ。宝石のルビーをイメージさせる濃い
     赤色である。関係者のスーツの襟などを飾る。

Ruby City MATSUEプロジェクトをきっかけにして、県外から3社(株式会社スマートスタイル、バブ日立ソフト株式会社、日立ソフトウェアエンジニアリング株式会社)が立地。
独立行政法人情報処理推進機構(IPA)の「自治体等におけるオープンソースソフトウェア活用に向けての導入実証」事業に地元IT企業を中心としたコンソーシアムの提案が採択された。高額医療費および高額介護費の合算システムをテーマとし、Rubyの基幹業務システムにおける導入に向けた実証を行った。

Rubyの聖地・松江のブランドが浸透していることがわかる。

IT産業の東京一極集中を打破し、地方に独自のIT文化を根付かせる——。MATSUEの挑戦は奇跡を起こせるのか。

(登坂 和洋:本誌編集長)

まつえOSS協議会「オープンソースサロン」08年度に外部から招いた講師
(4月4日の23回から11月21日の34回まで。カッコ内の数字は開催回。肩書きは当時)
インテル株式会社事業開発本部・木村一仁氏(23)
スマートスタイル社長・野津和也氏(24)
一橋大学社会科学研究科教授・ジョナサン・ルイス氏(25)
日経ITPro副編集長・高橋信頼氏(26)
楽天技術研究所代表・森正弥氏(27)
伊藤忠テクノソリューションズ執行役員・鈴木誠治氏(28)
京都ノートルダム女子大学准教授・吉田智子氏(29)
サン・マイクロシステムズJRuby エンジニア・Charles Nutter氏(30)
サン・マイクロシステムズチーフ・テクノロジスト・下道高志氏(30)
オープンソース・プログラマ/Nexedi SA Senior Consultant・塩崎量彦氏(31)
上海教育ソフト発展会社社長・張永忠氏(31)
韓国延世大学経営研究所専門研究員・李尚黙氏(32)
びぎねっと社長・宮原徹氏(33)
慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構准教授・嶋津恵子氏(34)

*1
OSSの開発方式はネット上で多くの企業、関係者の参加によってオープンな形で修正、改良を加えるものだ。