2009年10月号
巻頭記事
日本のiPS研究:総力戦に備えたクロスセクションの組織づくりが急務
~直近1年を振り返って~
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横関 智一 Profile
(よこぜき・ともいち)

野村證券株式会社
産業戦略調査室 研究員


昨年、一般にも広く知られるようになったわが国のiPS細胞関連の研究。徐々に米国が先行する兆しが見えてきた。筆者は、日本と欧米の競争力を比較し、わが国の研究が世界をリードしていくための戦略を立案し実行していく組織づくりが重要と説く。

京都大学山中伸弥教授(京都大学物質—細胞統合システム拠点iPS細胞研究センター長)が2006年8月にマウスiPS細胞樹立成功を「Cell」に発表し、2007年11月にヒトiPS細胞の樹立を「Cell」に発表した。これを受けて、2008年には山中伸弥教授の功績は一般にも広く知られることとなり、iPS細胞関連の数多くのマスメディア報道があり、雑誌の特集が組まれ、書籍も出た。アカデミックでは「Science」において2008年の科学進歩ベスト10の1位に選出した。さらに、知財の面では2008年9月12日に日本国内において誘導多能性幹細胞の製造方法として特許権が設定登録された(特許第4183742号:表1)。また、研究費の面においても、国は5年で100億円規模の研究資金を用意した。

表1 京都大学(発明者:山中伸弥教授)が申請し権利を設定登録された特許の概要

表1

当初から日本は決して大幅な優位性を保っていたわけではないが、今年に入ってからいつの間にか、対欧米、特に米国との競争では、iPS細胞関連研究は徐々に米国が先行するような兆しが見えてきた。特に2009年3月9日にBarack Obama大統領がES細胞に関する実験について、連邦予算からの資金提供禁止を解除する旨の大統領令に署名した後は、日本が米国に差をつけられているのではないか、といった報道もされるようになった。

現状把握(研究):研究成果面で遅れを取りつつある

現状把握のために、日本と欧米におけるiPS細胞関連研究における競争力の比較を行っていきたい。ここでは、大きく研究と国としての対応に分けて整理する(表2、3)。

表2 日米欧の研究成果の比較:全般的に欧米勢(特に米)が優勢である

表2

まず、研究に関して、アカデミックと企業における研究の比較がある(表2)。

アカデミックに関しては、論文発行数では欧米に伍(ご)する数を出しているが、質的に遅れを取りつつある。例えば、Yamanaka factorsとして知られる、Oct3/4、Sox2、Klf4、c-Mycの遺伝子導入方法においてランダムにゲノムに遺伝子が導入されるために安全性に懸念のあるレトロウイルスでなく、より安全性の向上したアデノウイルス(米国)やトランスポゾン(英国、カナダ)を利用したものが発表されている。また、一部のYamanaka factorsが不要でもiPS化に成功したという報告(米国、独国)、低分子化合物を用いてc-Myc以外のYamanaka factorsであるYamanaka cocktails(Oct3/4、Sox2、Klf4)のすべての遺伝子の代替が可能という報告(米国)、さらにYamanaka factorsの遺伝子ではなくタンパク質のC末端にポリアルギニン(R11)を付加することで細胞へ導入することに成功(米国)―という例がある。

ここで、特にYamanaka cocktailsの遺伝子以外での代替(低分子化合物もしくはポリアルギニンによる目的タンパク質の導入)は、今後iPS細胞の研究における再現性や安全性(がん化リスクなど)という面から見て主流になるといえる。研究成果の重要性からも特許の面からしても日本勢へのインパクトは非常に大きい。

さらにまた、iPS細胞株樹立数においても米国は日本に迫る勢いである。比較的短期的なiPS細胞の応用である、薬剤スクリーニングや疾患iPS細胞による疾患メカニズムの研究には標準となるiPS細胞の確立は必須であり、日本主導で標準化を行っていくにもプレゼンスのある研究成果を伴ったiPS細胞の戦略的供給が重要といえよう。

企業数においても再生医療という広いカテゴリで考えてやはり米国が半数近くを占めている。さらに、治験を行う企業に関してもやはり半数が米国であり、2009年1月22日に世界初のヒトES細胞治療の臨床試験の認可をFDAより受けたgeron社も米国企業である。

現状把握(国):研究に注力できる仕組みが不十分

表3 国家としての対応比較:欧米勢のほうが研究に注力できる仕組みが整備されている

表3

次に、国としての対応について比較していきたい(表3)。

まず研究費。日本の場合は昨年度から5カ年で約100億円のiPS関連研究資金を予算に組んだが、競合国と比して不十分といわざるを得ない。例えばカリフォルニア州では2005年から10年で30億米ドル(約3,000億円)の予算を組んでいる。また、アメリカ国立衛生研究所(NIH:National Institutes of Health)などの研究施設では年間6,000万ドル(約60億円)程度の予算を有している。ほぼ同等の頭脳があった場合、研究成果に差が出るのは研究費の差であるといえる。また、Barack Obama大統領は幹細胞研究支援に積極的であり、このままでは今後さらに研究費面での差、つまり研究成果での差が開くといえる。

次に研究を支える面での法整備について比較したい。ここではES細胞の樹立と使用に関する法律を挙げる。ES細胞とiPS細胞は樹立過程に相違があるものの、培養、維持、分化の方法や細胞としての性質に関しては本質的には大きな相違がない。そのため、ES細胞研究が十分に行われ知見や実績が積まれることは、日本のiPS細胞研究が世界で最先端を走り続けるためにも必要不可欠である。

日本では「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」が見直され、2009年8月21日、改正後の指針(「ヒトES細胞の樹立及び分配に関する指針」および「ヒトES細胞の使用に関する指針」)が施行された。

研究者の使い勝手を考慮したといわれる指針であるが、改正後でも世界一厳しい水準の指針であることは変わらない。旧使用指針では、ES細胞を使った研究計画の開始・変更の際、研究機関の倫理委員会と国の2重審査を課していたのに対し、新指針では国には届け出だけで良いと変更した。また、研究機関が外部の倫理委員会に審査を委ねることを新たに認めた。分配に関しても、ヒトES細胞から分化させた細胞を他機関に譲る際、従来課せられた倫理委員会の審査、国への報告を不要とした。一方で、作成については、従来通りの厳しい二重審査を維持した。

iPS細胞研究は世界中の研究者が日進月歩の勢いで研究成果を競い合っている分野である。今まで遅れていた米国もBarack Obama氏が大統領になって以降は幹細胞研究に積極的である。そのような環境の中で、上記のような法律のために本来ならば研究に費やされ、次々と成果を世に出すべき貴重な時間を、審査のための準備や結果待ちといった時間に費やされるのは、日本政府自ら日本の研究の足を引っ張る行為に等しいといえる。

日本のiPS細胞関連研究が世界をリードしていくための戦略的活動
図1

図1 戦略を立案する組織の提案:総力戦に備え
     た仕組みづくりが急務である

以上、研究や国としての対応の2つの側面からiPS細胞関連研究の日米比較を行ってきたが、iPS細胞関連研究を日本国における重要な政策の1つと考えるのであれば、研究が世界をリードしていくための戦略を立案し実行していく組織づくりが重要といえる。

その組織が解決すべき課題を研究、外国、国、一般人の4つの切り口から提案したい(図1)。

1. 研究:各分野にまたがるクロスセクションでの研究推進

iPS細胞関連の研究といってもiPS細胞研究を専門に行っている研究者を招集するだけでは不十分である。当然ES 細胞、バイオインフォマティクス、基礎医学、臨床医学、薬学、化学、ナノテクノロジーといった専門家を集中的に投下して初めて世界の最先端を行く大きな成果が出せるといえる。例えば、ポリアルギニン修飾によるYamanaka factorsタンパク質の導入などは、オリジナル技術は熊本大学の富澤一仁教授の成果であり、本来ならば日本勢が出すべき結果であったといえる。

2. 外国:国産iPS細胞標準化のための活動と戦略的提携

国産iPS細胞作成プロトコルでde facto standardを取り、iPS細胞の国際標準を取得するための戦略的な活動が必要である。日本のプロトコルが国際標準となることで、研究の優位性や先行性を確保できる。逆に標準化を海外勢に取られたときの、日本の研究者の障害を回避することができる。また、国際標準取得のために海外研究者とも戦略的な提携が重要となってくる。

あわせて、重要なiPS関連の権利を有する企業との戦略的提携も重要といえる。例えば、京都大学 物質—細胞統合システム拠点iPS細胞研究センター(CiRA)とiZumiBio社(バイエルが所有していたヒトiPS細胞に関する権利を譲渡されたバイオベンチャー)が、iPS細胞に関する基礎研究を促進するための協力について合意したことは良い例であろう。

3. 国:研究を迅速かつ効率的に行い、結果を残すための戦略的ヒト、モノ、カネの配置と法整備を整える活動

関連の研究は世界中で熾烈(しれつ)な競争が行われており、世界に先んじて研究成果を出し、de facto standardを取ることでiPS細胞の標準化を狙い、戦略的に研究を優位に進めるためにも機動性のある組織づくりや資源の適切配置が重要となってくる。よって、1研究所、1大学あるいは1企業が単独で研究するのではなく、また研究者もiPS細胞研究以外にバイオインフォマティクス、ナノテク分野などからも集め横断的な研究組織が必要である。ヒト、モノ、カネを集め、法整備を行い各研究者が研究のみに専念できる環境づくりへの支援を国に訴える必要がある。

2,700億円を30人の研究者に集中投入するといった提案も国からあるが、研究の達成すべき目標のベクトルをそろえた戦略的な資金投入が重要といえる。例えば、今回のiPS細胞関連研究に用意した特別予算(5年間で約100億円)のために、ES細胞関連研究をはじめ、直接的、間接的にiPS細胞研究にも関連してくるほかの研究へ予算配分が薄くなってはまったく意味がない。海外ではiPS細胞研究を重点研究分野と位置付け横断的研究分野一体として研究を進めている。日本においても効率的な資源配分が望まれる。

4. 一般人:徹底的なサイエンスコミュニケーション活動

日本において最先端の研究を世界にリードする形で行っていくには、国民の理解と世論としてのサポートが不可欠である。そのためには、研究とその期待される成果と国民が享受できる事項に関して、正しく、分かりやすく伝えるためのサイエンスコミュニケーションの徹底が必須である。

例えば、ES細胞の樹立には卵子の破壊を伴うが、この卵は不妊治療の際に本来ならば不要となって廃棄処分されるはずであったものを提供者の許可を受けてありがたく研究用に使わせていただいているものである。多くの人々や科学系のマスコミでさえ、研究のために卵子を搾取している、そうしたことは倫理的に問題であるといった短絡的かつ間違った理解となっている。そのために、現在でも日本は世界一厳しい管理下でのES細胞研究をせざるを得なくなっており、結果的に世界に遅れを取りつつある。この原因はサイエンスコミュニケーションの失敗ととらえることができる。

iPS細胞研究においても同様のことがあってはならない。iPS細胞関連研究に関しては、むしろ世間の期待感が強すぎる面がある。そのためにiPS偏重の予算配置や報道となっていることも否めない。上記3に挙げたように、結果としてiPS細胞研究を含めた日本のサイエンスにおける基礎研究の基盤を弱体化させる結果になりかねない。国を挙げて研究に適切に助成してもらうためにも、世論の醸成は必要不可欠である。

まとめ

2008 年は山中伸弥教授によるiPS細胞研究の成果が、日本国民へ自信を持たせ夢を与えたのは紛れもない事実である。サイエンスとしてだけでなくこの点においても偉大な研究成果といえる。引き続き大きな夢を与え世界をリードする研究成果を出し続けるために、総力戦に備えたクロスセクションでの組織づくりが急務であると考える。