2010年2月号
特集  - 実用化への志と喜び-語り継ぐ昭和の産学連携
ピッチ系炭素繊維 哲学を持った研究と企業の優秀なキーマンとの出会い
顔写真

大谷 杉郎 Profile
(おおたに・すぎお)

群馬大学 名誉教授
財団法人 群馬大学科学技術振興会 理事長



かかわった産学連携・事業化

私は1955 年ごろ、全く未開拓であった有機物が加熱されて炭素になるまでの過程、いわゆる炭素化過程の解明を志し、以後40 年以上研究を続けた。その研究が軌道に乗り始めた1960 年ごろから、企業との関係が深まり、次に掲げる3 系列6 件の研究が工業化された。最も大きいものは(2)の「ピッチ系炭素繊維の開発」*1だが、ほかの課題も、関連する一連の流れに属する。

<炭素繊維関連>
(1) 日本化薬株式会社:リグニンを原料とする炭素繊維

1963(昭和38)年から連携し、1969 年に工業化に成功、上市した。しかし市場開拓がままならず、5 年後の74 年に撤退。

(2) 呉羽化学工業株式会社(現在の株式会社クレハ):ピッチを原料とする炭素繊維

1963(昭和38)年から研究を開始し、工業化に向けた連携は1964年から。1970 年に工業生産開始。当初10 年ほどは販路開拓に難渋したが、その後は軌道に乗り、この分野におけるパイオニアとなった。

図1

世界最初のピッチ系炭素繊維

その後、ピッチを原料にして、汎用品と称される通常の特性を持った炭素繊維と、高性能品と称される機械的特性の特に優れた炭素繊維を作り分ける必要に迫られた。当初の株式会社クレハとの共同開発は汎用品グレードの製品だが、この成功がきっかけとなって多くの企業がこの分野に参画するようになった。高性能品の開発も研究室的には1969 年に私のところで成功したが、これの工業化はさらに複雑だった。ここでは、ピッチ系炭素繊維の始まりとなった汎用品の開発だけを取り上げることにする。クレハ単独の生産量は本年度1,450トン、売上高60 億円。太陽電池製造設備の増強、軽量自動車の部材などの分野で需要拡大期に入ったと考えられているようだ。

ピッチ系全体では、2009 年現在、国内4社、外国2 社(米国、中国)が各種のピッチ系炭素繊維を生産しており、その生産量は3,400 トン程度になっているようである。

<COPNA(コプナ)樹脂関連>
(3) 住金化工株式会社(現在のエア・ウォーター株式会社):COPNA樹脂(ナフタレン系)
図2

(上)連続紡糸で作ったリグニン系炭素繊維
     (下)連続紡糸で作ったピッチ系炭素繊維 

焼かないで、化学的に炭素が作れないかとの発想の下で作られた「ナフタレンを化学的に連結して作る耐熱性の樹脂」。抜群の摺動特性と耐熱性が特徴。1984年学会発表。1990 年住金化工株式会社が「SKレジン」の商品名で販売開始、RYOBIのオイルレスタイプのコンプレッサーのピストンとして使用され、20年後の現在も活躍中。

(4) イビデン株式会社:COPNA樹脂(ピッチ系)

適当なピッチの分子を化学的に結合して作る熱硬化性樹脂。炭素成形物の接着剤として抜群の特性を示す。1984 年の学会発表前後から、イビデンが自社用に共同開発し、26 年経過した現在でも、炭素製の大型装置を作る時に炭素部材の接着用として活躍している。連携は1984 年から5年程度か。

<ピッチカーボン(バインダーレス炭素成形品)関連>
(5) 炭研精工株式会社(現在の株式会社タンケンシールセーコウ)

適当な特性を持つピッチ原料を用いれば、その原料粉末だけで高分子成形物のように炭素成形物を作りうることを立証し、得られる炭素材の特徴を研究した。呉羽化学工業が、炭素繊維の開発と平行して、原料ピッチの調整とその販売を引き受けたので、炭研精工株式会社では1981 年ごろから。高密度炭素製軸受材、カルボン球などを上市し、定番の材料として定着。さらに最近になって、多孔質の精密吸着盤など新材料を開発。連携は1981 年から。

(6) 東北協和カーボン株式会社(現在の新日本テクノカーボン株式会社)

前項と同じ原料により、超高密度炭素製軸受材(メタファイト)を中心とする機械用炭素材を開発、現在に至る。1981 年から連携。

以下、最も重要で一連の工業化の端緒ともなった「ピッチ系炭素繊維」の開発に絞って記述する。どの開発でも要点は基本的には同じである。

産学連携成功のカギは?

次の3 つである。

1. ユニークな研究(新分野を拓く魅力的な哲学を持った研究)

炭素材料は窯業製品というよりは、特殊なシート状高分子と考えるべきだ。それを立証してみせる一番適切な炭素製品が「ピッチ系炭素繊維」で、ピッチはその原料モノマーだ。この考え方に立てば、繊維以外にも各種製品の開拓はできるはずだ。

私はこのような炭素観で、炭素材料の基礎から応用製品にわたる新分野を築くべく努力していた。当時の炭素の世界では画期的な考え方で、炭素繊維、COPNA樹脂、ピッチカーボンなどは、この考えに基づく一連の開発研究ということになる。

2. 企業側の意欲的で有能なキーマンとの出会い

当時の呉羽化学工業における最有力のキーマンは、当時の研究所長だった五味真平氏だった。彼は誠に有能な技術者で、当時自社の主力商品であるポリ塩化ビニルやビニリデンの原料であるエチレン、アセチレンを、ナフサではなくて、原油から直接製造する世界最初の「原油分解プロセス」を開発していた。

この新しいプロセスでは、副生するタールやピッチ類の生成量が、通常のナフサ分解法よりはかなり多いのが悩みの種だった。「そうか、タール、ピッチ類を燃料として利用するよりは、これらを炭素というシートポリマーの原料として利用する方が、はるかに魅力的だ」。私と五味氏は、最初の1 日で意気投合した。五味氏はその後炭素繊維のほかに、ビーズ状活性炭、ピッチカーボン用自己焼結製ピッチなどの開発も同時に行うことになった。五味氏というキーマンとの出会いなしでは、私の研究の工業化は語れない。この出会いこそが最大の鍵であった。

3. 若い企業担当者の課題に対するほれ込みよう

企業側の直接開発を担当する若手研究者の、課題へのほれ込みようが、もう1 つ重要な要素だと思う。これには、キーマンの新課題に取り組む姿勢や、課題そのものの魅力とも関連するのは当然である。

成功に至るまでの危機、障害をどう乗り越えたか

生産プラントが立ち上がるまでは、私の知る限り、重大な危機や障害はなかった。これは五味氏をリーダーとするクレハ技術陣の有能さにあったと思っている。重大な危機や障害が現れたのはその後である。

当然のことながら、開発を決断する前に、五味氏は数カ月かけて、国内、国外の予想されるユーザーと綿密に接触して、成功時の販路を自ら確かめて回っておられたようであった。にもかかわらず、1970 年にいよいよ生産が始まると、期待した需要が実現しなかった。ここからがまさに危機ということになった。

それは「需要の創生」という難問題で、この解決には5 年から10 年かかったのではないだろうか。当時から問題になっていたアスベスト代替材料としてのパッキンやガスケット、スレート瓦の補強材、導電性複合材料、電極材、断熱材など、いろいろなものを試していたようだが、需要は伸びない。1 年先行したリグニン系炭素繊維と同じ、存続の危機にあったようだ。

このため、国内だけでなく米国にも販路拡大のための拠点を作り、世界的なネットで需要を創生すべく努力していた。当時の記憶では、米国で燃料電池の電極が有望だよと喜んでいた。その後1983 年に、鹿島建設株式会社が、イラクのバグダッドに、炭素繊維補強セメントのパネルを外壁に使った大きなモニュメント(総工費270 億円)を完工させ、これを契機に「炭素繊維補強セメント」が有望な用途として登場した。この補強セメントはその後、東京・六本木のアーク森ビル(着工1983 年、完工1986 年)の外壁材として採用され、ようやく炭素繊維汎用品の安定的な需要ができたことになったようだ。

その後外壁材はバブル期の終焉(しゅうえん)とともに下火となり、代わって高温処理炉の断熱材としての用途が登場し、これが各種半導体製造装置や太陽電池製造設備、軽量自動車の断熱部材などで需要が増大し、最近ようやくピッチ系炭素繊維も需要創生期から需要拡大期に入ったと期待される状況になってきたようだ。「新材料の開発は、用途開発のめどが付くまでは成功とは言えない」。肝に銘じた感想である。

産学共同への批判など大学内でのご苦労は?
図3

昭和42年(1967年)当時の大谷研究室メンバー
     (写真前列左が筆者)

炭素繊維の開発は1963 年から1970 年の工業化成功を挟んで1985 年ごろまでがピークだった。この時代は、ご高齢の方なら忘れられない学園紛争の時代である。当時全学連(全日本学生自治会総連合)の看板の1つが「産学共同は敵だ」であった。私は大正14(1925)年生まれで、昭和の年と同じ年齢だ。「70 年安保」の時、私は45 歳で、学生問題を一手に引き受ける教務委員長の職にあった。私の大学でも前年に学園封鎖などがあり、70 年も当然何かがあると言われていた。そんな中で一生懸命企業との共同開発に取り組んでいたことになる。

当時教官の中には、産学共同への批判は特に存在しなかった。問題は学生側の出方である。万一の学生との討論を想定して、理論武装に努めた。工学はいかにして進歩してきたか。大学教官の特許は、国の産業防衛のための義務だ、など。そして、教務委員長に就任するころには、学生との論争には自信が付いていた。

結果的には、学生との紛争はなく任期の1年を過ごした。後日談だが、10 年ほどたったころに、出版社から、理学部学生用の工業化学のテキストを依頼された。そこで昔の理論武装を基礎にして、化学史、化学技術史を重視した「新工業化学概論」というテキストを1986 年に書いた。思いのほか評判が良く、1 回の改訂を挟んで、23 年後の今日でも教科書としてお使いくださっている方もおられる。学園紛争のたまものである。

「学」から見て産学連携はプラスになったか

2 つの理由で、絶大なプラス効果だったと思う。

1 つ目は、炭素繊維開発に取り組むことで、「炭素化過程の解明」という私の学問的な目標が達成された。この研究開発の中で、ピッチを原料にしながら2 種類の炭素繊維を作り分ける必要に迫られた。汎用品と称される通常の特性を持った炭素繊維と、高性能品と称される機械的特性の特に優れた炭素繊維である。紆余(うよ)曲折の末に、加熱する前のピッチ繊維の段階で、原料ピッチの分子の配向を制御しておけば目的を達することが分かった。このことが炭素化過程の学問的解明のゴールで、「炭素前駆体の構造制御が、より高温での炭素の構造と特性を支配する」という炭素の全体像が立証された。こんなに明白な立証はない。

2 つ目は、私の研究費の確保である。50 年ほどの昔は、まだ産学連携のルールも、特許権の所属や管理も曖昧(あいまい)で、今日ほどはっきりしていなかった。しかしクレハをはじめとして関係した各企業は、大変紳士的で、特許の管理にも協力してくださり、オブリゲーションなしの奨学金を私の定年まで続けてくれたり、特許のオプション料を払ってくださったりした。おかげさまで、定年まで科学研究費補助金の申請などしなくても、研究費には困らなかった。

先生の分野で今後10 年で可能性のある技術テーマは?

以下いずれもかつて私自身が関与した研究だが、後輩諸君に期待する。

[1] 触媒機能を持つ炭素(ナノシェル炭素)
白金触媒に代わる触媒機能を持つ燃料電池用炭素極群についての、群馬大学尾崎純一教授の最近の研究の展開に期待している。
[2] 炭素系太陽電池
C/Si 系の太陽電池が実験室での試作品で、8%程度のエネルギー変換効率を示すことは、かつて私が勤務した東海大学の金子友彦教授によって既に立証されている。C/C 型の太陽電池の可能性を確かめたい。
[3] 炭素繊維による藻場造成、環境浄化
群馬工業高等専門学校小島昭特命教授が展開している課題である。10年ほど昔、私も共同研究のリーダーとして、その基礎を固める役割を果たしたと考えているので、その発展に期待したい。

大学・研究機関の「知」を活用して産業を活性化するためにどんな支援が必要か

大企業については、特別な場合を除き、支援は必要ないと思う。

中小企業やベンチャー企業の場合は、支援があった方がいいとは思うが、相手によって千差万別だろう。資金であったり、場所であったり、特許の指導であったり、技術の助言であったり、販路開拓の支援であったり。そうなると「よろず相談所」的なところが必要なのではないだろうか。相談員は経験豊かな相当の大物で、しかるべき権限を持つことが必要だと思う。

それに、中小企業やベンチャー企業相手の場合は、大学側の「知」の発信方法に工夫が必要である。私が理事長をやっている財団で、大学の先生に、ご自身の研究を「誰にでも理解できる」といううたい文句で講演してもらうセミナーを、10 年ほど続けているが、効果を挙げるのはなかなか難しい。

日本は次の時代も技術・ものづくりで生きていくことができるか。何について頑張るべきか

技術・ものづくりで生きていくことは可能だろうと思う。スポーツや音楽などの世界では、最近若い希望の星がたくさん出てきているのをみても、技術やものづくりの分野にも、若い星を期待できると思う。

頑張るべきは、この分野における若者養成のための環境整備ではないだろうか。私どもは自前の小さな財団で、若手研究者対象にささやかな研究費(50 万円)を助成したり、海外の学会への旅費の補助、公開の講演会の開催補助などを26 年間続けてきた。ささやかでも継続は力か、などと考えている。


*1
「ピッチ」とは、石油の一番重たい成分であるアスファルトや、石炭からコークスを作る時に取れるコールタールの中の一番重い成分など、常温では黒い固体で、加熱すれば液体になるような複雑な混合物の総称で、炭素材料の工業的な原料。