2010年7月号
特集  - アジア諸国の知財戦略
インド
知識集約型産業確立目指し特許制度改革
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Monoj L. Shrestha Profile
(マノジュ L. シュレスタ)

甲南大学 経営学部 教授
スタンフォード大学 客員研究員


インドは中国と並んで高い経済成長率を示している。海外からのさらなる投資を呼び込 み、知識集約型産業の充実を図るため、特許法の改正など制度面の対応を進めている。

はじめに

2010 年5 月24 日、インドのシン首相は、政権2 期目の発足から1 年を 迎える節目の記者会見で、2010 年度(2010年4 月− 2011 年3月)の実質 国内総生産(GDP)成長率が8.5%(前年度7.0%)に達するという見通しを 発表した。アジア開発銀行による中国の2010年のGDP成長率予想は9.6% であるが、インドは依然として中国に次ぐGDP成長率を示す存在である。 インフレの懸念*1、インフラ整備の不十分さ、税務手続きや行政手続きの 煩雑さ等はあるものの、発展目覚ましい新興国としての地位を揺るぎない ものとしている点は、世界が対インド進出を加速化させている現状にも表 れていると言えるだろう。

そのような対外投資のさらなる誘引とともに、国内における知識集約型 産業のさらなる確立を目指すインドは、WTO 加盟国としても、TRIPS 協定 (知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)への対応を実現すべく、近年 さまざまな改正を断行してきた。特許法においては、1999 年、2002 年、 2004 年(改正令)、2005 年度に改正が行われた*2。特に2005 年度の特許改 正法により、最大の懸案事項であった物質特許制度が導入されたことで*3、 インド特許法はTRIPS 協定における最大義務を履行するに至ったと言うこ とができるだろう*4。インド特許庁への出願件数の近年の伸び率も(図表1)新経済政策による制度改革や近年の経済発展を背景としたインド企業の イノベーションの高まりも表すものであるとは思われるが*5、それ以上に、TRIPS 対応の一連の特許法改正 による外国企業の出願へのイ ンセンティブの高まりを顕在 化させていると言えるだろう。

図表1 インドにおける特許出願件数の推移(1995-2008年)

そして、外国企業による 2008 − 09 年出願総件数の上 位3 位、4 位(図表2)にまで欧 州の製薬企業が入り込んでい るのも、物質特許制度導入の 影響を受けてのものであると 思われる。

図表2 外国企業による出願件数トップ5(2008-2009)

一方で、主たる製品を後発医薬品に依存してきたインド国内の製薬企業 においても、大手を中心に、特許出願に積極的な企業が登場してきている。 そこには、物質特許制度の導入により、従来のような外国企業の医薬品を 解析して、異なる方法でつくり直すという生産モデルがもはや許されなく なった中、最終的には新薬開発をも射程に置いた研究開発戦略への転換も 見てとれる(図表3)。

図表3 インド製薬企業の出願トップ5(2008-2009)

物質特許制度導入後(ポスト2005 年)のインドの製薬企業全体の選択肢 としては、[1]自ら新薬を生産し、グローバルな展開を図る [2]後発医薬品業 に集中しつつ、その販路として海外展開を図る [3]外国企業と提携して、外 国企業の開発した新薬をインド国内向けに製造、販売する、というパター ンが考えられるが、それに加えて [4]改正により新たな形態での設定が可能 となった強制実施制度を利用して、外国企業がインドにおいて特許を保有 する医薬品を生産して後発途上国で販売する、というパターンの存在も指 摘されている。外国企業としては、この[4]については、注意すべきであろ う*6

また、2005 年改正自体には関連条項は盛り込まれてはいないが、2002 年改正において、生物資源、伝統的知識の保護にかかわる規定が導入され たことも特筆すべきであろう。2010 年10 月に名古屋で開催される生物多 様性条約締約国会議(COP10)でもこれらの保護にかかわる国際的枠組みづ くりをめぐっての激しい対立が予想されるが、その際にキーワードとなる 生物素材の特許出願にかかわる出所開示や利益配分問題は、日本の法律に 同様の規定すらないため、日本企業および研究組織においては、慎重に対 応を図る必要があるだろう。

本稿では、以下、近年のイ ンドにおける特許法の改正事 項のうち、外国の企業や研究 機関が注意すべき点として、 新たな形態の強制実施制度と 生物資源、伝統的知識の保護 にかかわる規定について言及 したい。

ドーハ型強制実施制度の導入

諸国の特許法において、特許権者による特許権の濫用を防止する上で重 要なセーフガードと位置付けられてきたのが強制実施制度であるが、イン ドにおいても設定件数そのものは限られてはいるものの、旧法(1911 年法) 以来、同制度の意義は重視されてきた*7。2005 年改正では、強制実施の申 請にかかわる手続きを早めるための改正とともに、2001 年11 月のドーハ 宣言(TRIPS 協定と公衆衛生に関する宣言)を受けての改正が行われた。そ もそもTRIPS 協定31 条(f)においては、強制実施権は、主として強制実施 を許諾する加盟国の国内市場への供給のために許諾されるとなっているた め、輸入を待つほかにすべのない医薬品の製造能力のない諸国は、当該医 薬にいつまでたってもアクセスできないという問題が指摘されていた。こ れに対しては、WTO 一般理事会も、2003年8 月、一定条件を満たせば31 条(f)の協定義務を免除できるとの決定を行い、医薬品製造能力のない国 においても医薬品アクセスへの道を開いたが、この流れを受けて、インド では、まず2004 年改正令において、医薬品製造能力のない国に医薬品を 輸出する目的においても、強制実施権許諾請求を行うことができるという 第92A 条を特許法に導入した。しかしその場合も、規定上は、輸出者は、 輸入国においても強制実施権許諾を得なければならず、輸入国に対応特許 すら存在しない場合は、強制実施権の許諾がなされないという点が、問題 であった。そのため、2005 年改正において、輸入国が「通知、そのほかの 形でインドからの特許医薬の輸入を許可している場合」も、第92A条の適 用を可能としたのである。

この一連の改正により、インドにおいても新たな形態の強制実施制度 (ドーハ型強制実施*8)の運用が認められることとなったが、懸念は、上述 したようにそれまでの活路を失った後発医薬品メーカーが、ポスト2005 年の戦略として本制度を濫用する可能性である。既にインドでは、2007 年9 月、後発医薬品メーカーNatco が、Rocheが特許を有する抗がん剤エル ロチニブ(Erlotinib、商標は“Tarceva”)をネパールへ輸出するためにこの第 92A 条に基づいて強制実施権許諾請求を行った事例がある。結果としては、 Natco 側が、ネパール政府から輸入にかかわる正式な要請を得ることがで きず、2008 年9 月26 日に当該許諾請求を取り下げたが、本件では、許諾 決定の判断の前に行われたインド特許庁による「権利者への聴聞の機会」の 合法性、その根拠についてもNatco 側が異議を申し立てる等、運用プロセ スについて、まだまだ課題がある点も問題視された*9

ドーハ型強制実施制度が頻繁に活用されるとは思われないが、外国企業 がインドで特許を保有する医薬品の対後発途上国向け輸出に、後発医薬品 メーカーが第92A 条を利用する可能性があることは留意すべきであろう。

生物資源・伝統的知識の保護にかかわる規定

そして、インドは、インドで利用されてきたとされる薬草およびそれら の利用にかかわる伝統的知識が国外に持ち去られ、それらにかかわる発明 が特許出願されるケースを“bio-piracy(生物資源への海賊行為)” と呼び、国策として、その有効性を争い、幾つかの欧米特許を既に取り消してきた経 緯があるが、その“bio-piracy” 対策も、インド特許法改正(2002 年)に盛り 込まれた。すなわち、「生物素材を含む特許については、明細書において、 生物素材の出所を明示しなければならない(第10 条4 項)」、「生物素材の出 所が明細書に書かれていない場合、国内の地域社会あるいは先住民社会に おいて、利用可能になっているところの知識にかんがみて、新規性がない と判断された場合、特許付与に対する異議申し立てができる(第25 条)」、 さらに「生物素材の出所の不表示・虚偽表示の場合、当該特許は取り消さ れる(第64 条)」というものである。これらの条文自体のTRIPS 協定との整 合性を指摘する声もあるが、インドは2006 年5 月29 日には出所開示義務 をTRIPS 協定に盛り込むべく、TRIPS 協定自体の改正案をほかの8カ国の途 上国とともにTRIPS 理事会に提出している*10

そして、特許法以外にも、2002 年に制定された生物多様性法において は、「国家生物多様性庁(National Biodiversity Authority)の事前の承認がな ければ、研究または商業的利用または生物調査および生物利用を目的とし て、インドにある生物資源またはそれに関する知識を取得することはでき ない(第3 条(1))」「国家生物多様性庁の事前の承認を得ずしては、知的財 産権を出願することはできない(第6 条(1))」「国家生物多様性庁は、承認 を与える際に、利益配分の料金もしくはロイヤルティもしくはその両方を 課すこと、または権利の商業的利用から生じる財政的利益の配分を含む条 件を課すことができる(第6 条(2))」というような規定が設けられているこ とから*11、インドの生物資源、伝統的知識へのアクセスおよびそれらに基 づく研究成果の出願については、両法を重ねて留意する必要があるだろう。

結びにかえて

インドの近年の特許法改正、それは、物質特許制度導入に代表されるよ うに、インドがそれまでの特許制度に支えられた途上国型の産業構造とあ る意味で決別を図り、先進国型特許制度の導入をもって知識集約型産業の 確立を目指そうという意思表明でもある。そして、先進国と同じ特許の保 護基準に立った上で、新たな課題として、グローバルな公益問題への対応 からドーハ宣言に即して新たな形態の強制実施制度を導入し、また、グ ローバルな環境保全問題とのリンクから生物資源関連発明の出所開示を TRIPS 協定に逆に提案し始めた。しかしこれらは、決してインド特有のも のではなく、TRIPS 協定や生物多様性条約という国際条約に根拠を置いた グローバルな課題である。2020 年までに先進国入りを目指すというイン ドが、知的財産権にかかわる新たな国際制度の構築においても、先導的地 位を図るべく、新たなモデルを国内で実践し、世界にアピールしようとし ているスタンスもよく理解した上で、おくすることなくインド企業や研究 機関との連携を図る必要性があるだろう。

*1
HIGHLIGHTS - Prime Minister's News Conference. REUTERS, Monday, 24,2010. 同記者会見で、シン首相は、懸 念されているインフレ率につい ても、現在の10 % を2020年 12月までに5-6%に抑制できる との見通しを示している。

*2
改正動向については、山 名美加.インド特許法の改正と 課題−医薬品・バイオ関連の規 定中心に−.知財研フォーラム. Vol.71.pp.3.以下が詳しい。

*3
物質特許制度導入までの間 であっても、医薬品発明にかか わる出願は取りあえず受け付け ておき、2005年にそれを審査す るというメールボックス出願制 度が1999年改正で導入された。 しかしながら、同制度は物質特 許制度の導入に伴い、排他的販 売権制度とともに、2005年1月 1日に施行された「2004年(改 正令)」により廃止された。排他 的販売権(Exclusive Marketing Right)制度とは、ほかのWTO 加盟国で物質特許が認められた 医薬品等について、その権利者 に、インド国内で独占的な販売 権を付与する制度である。

*4
そのような改正を契機に出 願件数は急増、逆に処理能力が それに追い付いていかず、滞貨 が8,000件(1995-2000年度) に上るという問題も指摘されて いる。
参考U R L : http://www.patentlens.net/daisy/patentlens/2598.html

*5
インド企業におけるイノベー ションの実態については、拙稿、 インドと「イノベーション」−そ の現状と課題−.知財フォーラム. Vol.71.2007,pp.17.以下参照。

*6
同様な指摘として、Sudip Chaudhuri. The WTO and India's Pharmaceuticals Industry. Oxford University Press.2005, p.53.

*7
山名美加.発展途上国にお ける特許の強制実施制度−イン ドを事例の1つとして−.日本 工業所有権法学会年報.第24 号.平成13年3月.

*8
ドーハ宣言を受けて、途上 国への輸出を目的としたドーハ 型強制実施の最初の許諾例とし ては、カナダ・ルワンダの事例 がある。2007年7月17日、ル ワンダ政府がTRIPS理事会に対 して、カナダの後発医薬品大手 であるApotexからHIV治療薬 TriAvir(Glaxo SmithKline が 特許を保有)を輸入するという こと、そして、当該特許権のル ワンダでの行使を認めないとい う通報を行った事例である。そ して、カナダ政府は、2007年 9月21日、Apotexに対して、 TriAvirを製造し、ルワンダに 輸出するため、9つの特許発明 を利用することを認める強制実 施権を許諾し、同年10月4日、 TRIPS理事会に対し、当該強制 実施権に関しての通報を行って いる。

*9
インド特許庁としては、ド ーハ型強制実施制度が、後発 医薬品メーカーによって濫用さ れてはならないという方向性 で、両当事者から意見を聴取し たとされる。本件の詳細につい ては、山名美加.インド特許法 における強制実施制度−近年の 改正を踏まえて−.日本ライセ ンス協会.LES JAPAN NEWS. Vol.50. No.2.が詳しい。

*10
WT/GC/W/564/Rev.2, TN/C/W/41/Rev.2.,IP/C/ W/474, 5 July 2006

*11
国家生物多様性庁に対し て事前の承認を求めることが規 定されているのは、インド国籍 以外の者、非居住インド国籍 者(1961年所得税法に基づく)、 インド以外で設立された法人で ある。(生物多様性法3条(2)) 内国人、インド法人による事前 の承認については州の生物多様 性委員会が所管している。(生物 多様性法7条)