2011年1月号
インタビュー
誠心誠意取り組んで、失敗しても悔やまない
顔写真

遠藤 章 Profile
(えんどう・あきら)

株式会社バイオファーム研究所
代表取締役所長


聞き手・本文構成:松尾 義之 Profile


心筋梗塞(こうそく)や脳梗塞の原因となる高コレステロール血症。その治療薬であるスタチン系薬剤は、世界で年間数兆円にものぼるとされる。この1番の大元がコンパクチンであり、当時、三共株式会社にいた遠藤章博士(現在、株式会社バイオファーム研究所代表取締役所長)によって、1973年に京都の米穀店のコメに付着していた青カビから発見された。しかし、そこから薬の開発に向かう過程においても、幾多の困難が待ち構えていた。その当事者である遠藤博士は、そこでいかなる思索をし、行動をとったのか。科学の論理に裏付けられた冷静な思考と真摯(しんし)な取り組みなくして、この画期的な新薬は日の目を見なかった。インタビューを通してそう確信した。                 (松尾義之)


東北大学を卒業して三共へ

子どものころから、野口英世のような、人の役に立つ科学者になりたいと思っていました。東北大学の学生だった昭和28年から32年ごろは、ちょうど抗生物質が全盛の時代でした。私は有機化学、中でも抗生物質を中心とする天然物化学に興味があったので、青カビからペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミングの伝記や、土壌微生物から結核の特効薬ストレプトマイシンを発見したセルマン・ワクスマンの自伝などを買って読みあさりました。東北大学の理学部化学科は天然物化学で有名で、当時7員環化合物のヒノキチオールを発見した、有名な野副鉄男教授がいました。以前には日本産漆の活性成分ウルシオールを特定した真島利行教授もいました。私が微生物を利用する新薬と食品の開発研究を生涯の研究課題とした背景には、子供のころからの生活環境に加え、東北大学で受けた影響があったと思います。

朝鮮動乱が昭和25年ですから、戦後の1番ひどい時代から抜け出しつつある時期でした。大学を卒業した昭和32年ごろから、企業も大学卒業生を採用するようになり、就職難というのもほとんどなくなりました。それまでは大変で、大学を出ても学校の先生になるくらいしか就職先はありませんでした。私はそんな時代のなかで、天然物化学に関心があって、三共(現、第一三共)に入ったのです。当時の製薬会社も、もちろん新商品を出したいという思いは持っていましたが、今で言う自社独自の新薬を開発するなど及びもつかない時代でした。自動車産業でもどの業界でも、海外から製品を輸入するか海外のコピーをつくる、ものまねの時代でした。

三共に入って最初は工場配属で、がっかりしました。工場現場で働く社員と一緒に肉体労働も経験しました。研究がしたかったので希望したところ、入社1年後からは工場所属のまま、研究所で微生物を利用する研究ができるようになりました。ぶどう酒やりんご酒、ぶどうジュース、りんごジュースなどをつくるとき「にごり」が生じます。ペクチナーゼという酵素は濁り成分であるペクチンを分解して濁りを除去します。入社して半年後から、私はペクチナーゼの開発研究をテーマにしていました。幸いなことに、入社1年半後にペクチナーゼを大量につくるカビを発見して、特許を取り、2年後に新商品として売り出すことができました。つまり、入社2年で会社に貢献ができたわけです。それが評価されて、入社5年後には研究所所属になっていました。

アメリカ留学へ

入社数年後に、海外へ2年ぐらい留学してよい、という話が会社からありました。当時は1ドルが360円の時代。海外に留学したくても自費では不可能な時代でした。会社は年に1人か2人の研究者に海外留学を認めていましたが、私は運良くその1人に選ばれました。私が留学する2年前の1964年、コンラッド・ブロックというハーバード大学の教授が、コレステロール生合成の研究でノーベル賞を受賞していました。私はその先生のところに留学したかったのですが、申し込むのが遅くて、結果としてそこには行けませんでした。ですが、アメリカ留学中も帰ってからも、コレステロールに対する興味はずっと持っていました。それが後年のスタチンの開発研究に結び付くことになります。コレステロールというのは要するに油で、当時、油の研究をする人はあまりいなかったのです。油というのは水に溶けませんし、当時はいい洗剤がなかったので実験器具を洗うのも大変で、敬遠されがちでした。でも、むしろ人の毛嫌いするような所に宝物は潜んでいるということなんですね。

留学先のアルバート・アインシュタイン医科大学はニューヨーク市にありました。私は、油の仲間のリン脂質と酵素の関係を研究しました。その2年間のアメリカ生活で、コレステロールが動脈硬化と心臓病の主要な原因になることを、初めて知ったわけです。当時のアメリカはすでに高齢化社会でした。高齢者が多くて、肥満が多い、糖尿病が多い、動脈硬化が多い、コレステロールの高い人が多い。今の日本と似ています。40数年前からアメリカはそういう国でした。しかし、コレステロールを下げるいい薬がなくて困っていたのです。欧米の先進国にとっては、コレステロールを下げる薬の必要性は差し迫ったものでした。なにしろ年間60万から80万の人が心筋梗塞で死んでいました。当時のアメリカでは、がんで死亡する人は20万~30万人でした。今でも先進国では心臓病で死亡する人は圧倒的に多いでしょう。国を挙げての大きな問題でしたから、30代半ばの私にとっても、またとない大きな研究テーマでもあったわけです。若かったから「よし、ひとつやってみよう」という気持ちが出てきたんですね。

天然物から新薬を探索するということでは、抗生物質の研究は、だいぶ下火になっていました。天然物を新薬にしよう、あるいは新抗生物質を見つけようというのは、要するに宝探しですから、探し尽くせばなくなります。多くの研究者が微生物がつくる新薬は探し尽くしたと考え、合成化合物から探すほうにシフトしていました。1960年代末はそんな時代でした。しかし、私は探し方を工夫すれば、微生物から抗生物質以外の新薬が見つかると信じていました。

コンパクチンの発見

1968年に帰国してから、菌類(カビ、キノコなど)からコレステロールを下げる新薬候補物質の探索を始めようと考えました。ただ、そう思っても、簡単にできることではありません。準備も調査も要りますし、本当にやっていけるのか、見極めをつけなければなりません。時間はどれぐらいかかるのか。どれだけ人手が要るのか。費用はいくらかかるのか。いろいろなことがありました。そういう問題を整理して、態勢を整え、会社の許可を得て、4人で研究を始めたのが1971年春です。誰もやったことのないことですし、一から全部考えなければいけなかったので、それだけの準備期間が必要だったのです。コレステロールの生合成では、約30種類の酵素が順番に働きます。単純に言えば、30の酵素があれば、30のターゲットがあっていいわけですが、私はその中で1番大事なヒドロキシメチルグルタリルCoA(HMG-CoA)還元酵素の阻害物質にターゲットを絞りました。狙うとすればそこだろうと、考えたのです。前例がなかったので、HMG-CoA還元酵素阻害剤をコレステロール低下薬にしようというのは私の仮説で、私が最初の挑戦者だったわけです。

具体的な作業としては、カビやキノコというのは、土の中にいくらでもいますから、そういうものの中から自分で好きなものを選んで、それを培養して、培養液に阻害作用があるかどうか調べるわけです。カビやキノコは既存の株もいっぱいあるので、それらを貸してもらったり譲り受けたりもしました。そして結局、2年間で6,000株ぐらいの菌類を調べました。失敗すれば同じ試料で2回も3回も繰り返すこともあるし、膨大なガラス器具を使いますから、それを洗うのにまた2、3日かかることもあるし、簡単にはいかないわけです。初めから2年が限界だろうと思っていました。そこまででだめならやめようと考えていました。

こういう探索は、見つからない可能性が常に残る中でやっていくわけで、宝くじとは違います。宝くじは、自分には当たらなくても誰かに必ず当たる。ところがこうした研究は、そもそも当たることがあるかどうかさえ、誰も分からないのですね。だから、もちろん不安はありました。でも、もしまったく不安がなかったら、そもそも、面白くないでしょう? これがチャレンジだと思います。今の若い人たちは、そういう興奮するようなものを持っているのでしょうか。イチローがヒット打って大喜びしているけれども、それは他人のことで、自分の体験ではないでしょう。これは大きな違いです。自分でそういうことに立ち向かわないのは、実にもったいないと思います、1度しかない人生なんですから。それを若い人たちに言いたいですね。

初めはともかく、2年やっても成果が出ないと、焦燥感にも駆られます。でも、チャレンジというのは、絶えずそういうものなんですね。私は魚釣りが好きで、誰もいないところに行って、釣り糸を垂れるんです。本当に釣れるか釣れないか不安になってきます。昨日もだめ、今日もだめ。でも、それをやっている間に、もう少し粘れば大物がかかるかもしれないという、そういうことがうすうす分かってくるんです。これが支えになるのです。必死になってやっていると、「もうちょっと粘ればできそうだ」とうすうす分かってくるんですよ。コンパクチンをつくるカビは、後で調べてみたら京都の米穀店のお米に生えていた青カビでした。でも、青カビだって全部を調べたら大変なので、無作為で選んだ1株をその6,000株の中に入れておいたわけです。残りの青カビ10数株もつくるだろうと後で調べたのですが、どれも全然つくらなかった。まるっきり考えないのも、考えすぎも駄目。運を天に任せるしかない局面もあります。結局はそうなんです。私はそう思います。一生懸命にやって失敗したらそれでいい。腹をくくるなんて改まったことではなく、当たり前のこと、普通のことなんです。でも、今、それが許されない時代になってしまった。

阻害作用のあるカビが見つかったとき、それはやはり興奮しました。そのために苦労してやってきたわけですから。でも、新薬の開発では、それは登山口の入口でしかないんです。コンパクチンを見つけたといっても、「きっかけはつかんだ」ということだけであって、それが黒となるか白となるかは分からない。まさに苦労の始まりだったのです。新薬の開発では、表面には出ない苦労話がみんなあると思います。私の場合、なぜはっきりといろいろな出来事が明らかにできるかというと、私自身がこの物質とずっとかかわっていたからです。10年以上かかる新薬の開発では、担当者がどんどん入れ替わるのが普通で、開発全体を正確に把握している人がいないんです。ところが私は、最初からずっと自分でやってきたようなものだから、こういう話ができるのだと思います。

3つの大問題を超えて

1973年にコンパクチン(ML236B)を発見しましたが、その後、山あり谷ありが続きました。大きな山が3つありました。最初の山は、なぜかコンパクチンがラットに全然効かなかったことです。当時は、世界中の人が、ラットで効かないものはヒトにも効かないという考えを持っていました。だから三共でも、これは新薬にはならないと判断したわけです。それに対して私は疑問を持ちました。ラットに効かなくてもヒトに効けばいい、ラットに効かなければヒトに効かないという、そんな科学的根拠はない、と。要するに、当時の世界の常識に疑問を持ったんです。

科学というのは、疑問を持つところから始まります。科学者としては当たり前のことです。でも、ラットで効かなければヒトだって効かないだろうと考える人が、多数どころか全部だったんです。そこで、なぜラットでは効かないのかを調べていきました。上司もそれを認めてくれたので、研究を続けることができました。こうして2年間粘っている間に、血中コレステロール値が正常なラットに効かなくてもコレステロールの高い患者には効くかもしれないということがだんだん分かってきました。でも、そうかと言って、人に飲ませるわけにはいきません。そこで別の動物ではどうかとなって、コレステロールが多い卵を毎日産むニワトリで試してみたら、これが、ほんとに劇的に効いたんです。これが弾みになって、イヌに投与したところ、これも劇的に効きました。これでコンパクチンが見直され、新薬にしようという動きになりました。私をリーダーとする50~60人の開発プロジェクトができ、1976年8月下旬にスタートしました。

ところが翌77年4月末に、今度はラットで肝毒性が出たという2つ目の大きな山が現れました。安全性を調べる研究センターがあって、そちらから電話で知らせが来たのです。安全性でケチがついたということです。安全性でケチがつくと、大体はそこで駄目になります。無理をしたら後で大変なことになるからです。しかし、そこでもまた、私は新たな疑問を持ちました。

私の疑問は、投与量が必要以上に高すぎた点でした。人に対する推定有効量の250倍(約250mg/kg/day)では安全だというデータが得られていましたが、500倍、1,000倍では肝毒性らしいものが出たということでした。毒性学の専門家たちは、だから駄目だという考えだったんです。でも私は、500倍で何かが起きたからといって、問題にすること自体が間違いだと思いました。皆さんだって、医師が処方した量の500倍の薬を5週間毎日飲み続けてごらんなさい。それで何かまずいことが起こったとして、その薬が駄目だといいますか?

私は毒性学、安全性の専門家ではありませんが、そんなばかなことはないだろうと思いました。それが理由で新薬にはならないと決めつけるのは、正しくないと思いました。そこで、9か月間粘りました。でも、私には決定権はありません。ゴーサインを出すかやめるかの主導権は、安全性試験センターの毒性学者たちが握っていて、彼らとやり合っても勝ち目はありません。

開発が頓挫して困っていた1977年の5月から夏にかけて、ぐうぜん、外部からの申し出が2つありました。最初はアメリカから、「重症の患者で、放っておいたら命が危ないから、コンパクチンで治療したい」という要請がありました。ゴールドスタインとブラウンの2人からで、彼らは1985年にノーベル賞をもらいますが、その彼らが自分たちの患者の治療に使いたいと言ってきたんです。彼らが数名の重症患者を治療していることは以前から聞いていました。その中の2名の症状が急変したのです。要請は非常にいい話だったんですが、当時の日本は海外との協力の仕方もよく分からないし、経験もありませんでした。みんな持って行かれてしまうのではないかとか危惧(きぐ)され、このアメリカの話は立ち消えになりました。2人の患者が生きるか死ぬかというときに、それを助けようという方向に進められなかったのは悲しい経験でした。

もうひとつは、同じ77年の8月に阪大病院から、私が前から知っている山本章さんという内科の医師が同じことを言ってきたんです。患者さんは18歳の女子高校生。このままでは危ないので、コンパクチンで治療してみたいということでした。私は上司に相談しました。そして、会社でこの話を持ち出せば、みんな反対するに決まっているから、誰にも言わずこっそりやろうということになりました。治療は翌年の1978年2月2日に始まり、それが大きな転機になりました。その後、この患者さん以外に重症患者をかれこれ10人ぐらい山本先生が治療されて、その年の8月ごろには、コンパクチンが非常に良く効き、安全性にも問題がないことが分かりました。そこでまた息を吹き返したのです。同78年11月には、コンパクチンの正規の臨床試験が始まりました。ここまで来れば、私は医師じゃないし、専門家たちに任せても大丈夫だろうと思い、年末に会社を辞めて、東京農工大学に移りました。大学の先生もやってみたい仕事でした。

コンパクチンの臨床試験は極めて順調に進んで、画期的な新薬になると、世界中から期待されていた最中の1980年8月、三共は臨床試験に参加していた国内の主な医師を集めて、「開発の全面中止」を伝えました。これが3つ目の大きな山です。うわさによれば、同時進行中の2年間のイヌの長期毒性試験で、高投与群のイヌに腫瘍(しゅよう)が認められたとのことでした。しかし、うわさが真実か否かは30年余り経った現在でも不明です。この長期毒性試験は私が三共在職中の1978年5月24日にスタートしたものですが、試験の計画段階で私は重症患者での有効量(1mg/kg/day)の100倍(100mg/kg/day)、200倍という途方もない投与量に強く反対しました。当時の脂質低下剤(クロフィブレート)の例を基に、20倍(20mg/kg/day)以上に上げる必要はないと主張したのですが、残念ながら認められませんでした。問題が発生したのは100倍、200倍の2群で、25倍群では問題がなかったのです。私の主張を認めていれば、コンパクチンの開発を中止することはなかったはずです。

ところで、私たちの後を追って、1978年11月ごろ、米国のメルク社の研究陣はコンパクチンの同族体ロバスタチンを黄色系のカビから発見していました(以後コンパクチン同族体をスタチンと総称する)。この事実を知ったのは1年後の1979年秋でした。実は、メルクの発見と前後して、私も農工大で紅麹カビからロバスタチン(当時はモナコリンKと命名)を発見していたのです。

コンパクチンの発がん性による開発中止を知ったメルクは、1980年秋に、臨床試験に入ったばかりのロバスタチンの開発を中止しました。「コンパクチンに発がん性があれば、ロバスタチンにもある」とは誰もが考えることです。しかし、その先が違いました。コンパクチンの開発中止の理由を不審に思ったメルクは、ロバスタチンの毒性と安全性を徹底的に調べました。その結果、高投与群で認められる毒性は発がん性とは無関係であると結論を出しました。そこで、開発を再開し、1987年秋に認可を得て、商業化スタチン1号として(商品名:メバコア)米国などで発売しました。一方、三共はコンパクチンをあきらめて、誘導体のプラバスタチンを開発し、1989年に「メバロチン」の商品名で発売しました。コンパクチンの開発が順調に進んでいれば、1984年には商業化が見込まれていました。世界で最初に発売できたはずですが、惜しいことをしたものです。

その後欧米と日本でさらに5種類のスタチンが商業化され、現在3,000万人以上の患者に毎日投与されています。スタチンの年間売上は邦貨換算で3兆円前後に達します。主にスタチン治療によって、米国では心筋梗塞による死亡者数が最近15年間で3分の1減少したと報告されています。

自分で選んだ道を精いっぱい

誠心誠意取り組めば、失敗しても悔やまないものです。大きな困難をいくつも克服するには大変なエネルギーが要ったでしょうと言われますが、自分で選んだ好きな道だったので、私は特別無理したとは思っていません。私は、チャレンジして精いっぱいやること、誠心誠意、課題に向き合って取り組むこと、そこに意味があると思っています。ですから、「ああ、あのとき、ああやっておけばよかった」と後悔することのないような生き方をしようと思ってきました。確かに、先にお話しした3つの大きな山の時も、そこで止まっていたら、今日のスタチンは存在しなかったでしょう。ということは、その時その時の人たちとの出会いがあって、成功に結び付いたということでもあります。そのような人たちと出会えたのは一生懸命やっていたからだと思います。ちなみに、コンパクチンはイギリスでも抗生物質として発見されていましたが、彼らはラットで効かないのを理由に研究を進めなかったのです。当時は、世界中の人がラットに効かないと駄目だと信じていたんですね。ラットは重要な実験動物だったのです。

会社を辞めたのは1978年末、45歳の時ですが、研究室長になると、会議やらデスクワークで自分では研究ができなくなります。私はそれに耐えられなかった。それと、若い人に教えたかった。学生に教えて、優秀な科学者を1人でも多く育てたい。それも夢だったのです。大学では、スタチンのことと、それ以外に微生物を利用する研究をずっと続けました。今も続けています。

私たちがスタチンの開発研究を始めたのが1971年。コンパクチンを発見したのが73年。メルクが最初のスタチン(ロバスタチン)を薬にしたのが87年。スタチンが「安全で有効な薬」と認められたのが研究開始から23年後の94年です。この種の新薬の開発史としてはこんなものでしょう。

研究生活の中でこれはうまくいったと思ったことはいくつかありますが、スタチンの発見後に遭遇した予期せぬ困難を克服したことです。スタチンが実用化できたのは、国内、国外の優れた医師と研究者との出会いと、協力があったからです。出会いがあったのはあきらめずにやっていたからだと思います。その逆に、苦労したことは、すでに述べたように、あまりありません。ただ、後になって振り返ると、コンパクチンがラットで効かないから中止するという窮地に追い込まれて、瀬戸際で2年間粘っていたときは、もともとやせているのに体重が5キロも減ったのですから、やはり参っていたのかなとは思います。

日本の課題、未来世代を育てる視点

企業や大学の研究について、いろいろな戦略とか方法論とかが提案されていますが、ナンセンスな議論が多いと感じます。その多くが、結果論だということです。研究開発は、この研究がうまくいったからとか、誰かがこうやって成功したから、だからこうしようという話ではないと思うのです。

毎日毎日、今までと連続しつつも、予想外の新しいことがどこかで起きる。それが新しい技術革新になるわけです。今までのことを総合して、だからこうしようというのは、私はイノベーションじゃないと思う。コンピューターを使って資料を集めるのは誰にでもできることです。誰も予測しなかった発見は膨大な資料と議論から生まれるものではないのです。また、日本人は流行に乗るのが好きだと言われますが、それでは新しいものは出てこない。流行は乗る方ではなくて、つくる側でなくてはなりません。

菌類からコレステロール低下薬を探した前例はなかったし、将来もこんな泥臭いことをする研究者は出てこないだろうと信じていました。コンパクチンの発見後も、ほとんどの研究者がそんなものは新薬にならないという考えで、興味を示さなかったんです。だから助かったんですね。誰も興味を示さないから、追い掛けられる心配がなく、最初の7年間は、社内での葛藤(かっとう)は別にして、外敵を意識せずにマイペースでやれました。

ただ、誰もやらないことに挑戦するのは、大きな夢、旺盛な好奇心、自分の考えを貫き通す信念、使命感などが要求されます。そのためにはどうしたらいいか。やはり、子どもの教育を考えなくてはいけないでしょう。子どもに科学者になりたいという夢と希望を持たせるようにしなくてはいけません。子どもがこんな科学者になりたいというモデルを見つけられるようにすること、と同時に、子どもが科学者になりたいという夢を持つような社会にしなくてはいけない。自由で豊かな発想のできる人が育つような環境、社会を準備しないといけない。結局、子どもたちの問題ではなくて、大人と社会の価値観の問題ではないですか?

私たちは今よりも精神的なゆとりのある時代に生まれ育ちました。だから失敗を恐れずに挑戦できたと思うんです。いい新薬をつくれつくれ、と言われていたわけではないのです。良く言えば、余裕がある時代でした。だからスタチンの開発研究に挑戦できたのだと思います。イノベーションはこんな雰囲気から生まれるものなのかも知れません。

尊敬する人ですか、子どものころは野口英世、大学ではフレミングでした。私はフレミングの伝記を読んで感銘を受け、それ以来フレミングを科学者のモデルにして今日までやってきました。目標とするフレミングに出会えたことに感謝しています。私は優れた指導者と共同研究者に恵まれたことにも感謝しています。交流があった科学者の中の4人がノーベル賞受賞者です。先ほど挙げたゴールドスタインとブラウンは、私と知り合ったときはまだ30代前半でした。私が留学しようと思って行けなかったハーバード大学のブロック教授は、いつも私を励ましてくれました。もう1人、イギリスのデレック・バートンという化学者も、長年私を支援してくれました。存命の2人とは今でも交流がありますが、いい先輩と友人を持つことは大切なことです。

日本独自のゆとりある進め方を模索せよ

企業の人はやはり企業の儲けを最優先するので視野が狭くなりがちです。一方、大学の先生は、自分の研究と教育には熱心で、誇りをもっているが、世間知らずで独り善がりの面があります。ですから、両方がうまく協力し合うのが理想的なのでしょうね。日本はそこがまだうまくいってない。それでも、大学と企業の協力関係はずいぶん良くなり、いろいろ制度も改善されています。ただ、それがいまだうまく機能してないように見えます。なぜか? それは、アメリカの制度をそのまま導入しているので、わが国民になじんでいないからです。だから、期待したほどの効果が上がらないのです。結局のところ、日本独自のやり方を模索すべきなのです。それには、アメリカのやり方そっくりではなく、日本の文化、伝統、地の利を生かすことだと思います。